2001年11月11日
ザ・フリントストーン500回放送記念スペシャル
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「基本的に調和とかチューニングなんてないんだよ。例えば人生の業とか宿命みたいなものを何とか克服するのが知恵とか叡知とかテクノロジーなんだと思う。そういう部分で努力しなくちゃ。一極的に、緑がとか伐採がとか、河川がとかいう、ある一つのことでは自然は見えないんだ。 どうやって自然と共存してったらいいかというテーマにおいては。 僕が一番簡単にいってるのは、人種の差別も貧富の差もなく、 国のボーダーもなく、みんなが平等に食べて、同じスタンスにたって衣食住を満足したときにはじめて、『あぁ、お月さんってきれいだな』ってみんなが同じように思えるわけさ。 そうじゃなかったら『月なんかきれいなもんか、俺は腹が減ってるんだ』っていうのが先決でしょ?だからみんなが同じように過ごすっていうのが自然保護の第一歩だと思うね」
こんな風間さんの言葉から、我々は「自然」というものを広くとらえ、様々なゲストの皆さんに出演いただいてきたし、自分たちもフィールドに出かけていくようになりました。そんな中で強烈なインパクトを与えられた所の一つが屋久島でした。私達が屋久島で感じた事を“楽園”で有名なカメラマン、三好和義さんがこんな言葉で代弁してくれました。
「樹齢が縄文杉で7000年といわれます。そういう木を目の前にすると、せいぜい我々は100年も生きられないのわけで、自分の存在というものを考えますよね。何千年というのは僕らにとったら宇宙の単位だから、そういう樹木を前にして宇宙の果てまで自分の気持ちが行くというのは面白い体験でした。森と、自然と一体になるということを体験しながらどんどん深いところにはいっていったというか、仏教や密教の修業に非常に近い部分だったでしょうね。だから屋久島の森に入ってもテクテクと歩かないで、四畳半ぐらいのところにずっといて、小さな水滴なんかを撮ってると、小さな世界に宇宙を見るという曼荼羅のような感覚でしょうね」
大きな存在ということでは「海」もそうです。特に「海」には母性を感じる方が多かったんですが、この方もそうでした。ヨットレーサーの原健さんです。
「ヨットの練習で、寝てるときがあるんだけど、寝てる場所っていうのは海の水面のあたりか、水面よりも低い位置にあって、寝てるとカサカサっていう海の音がするんです。なんかその時に、多分お母さんのおなかの中にいたときのような、子宮の中にいたときのような、そんな感じがしますね」
海洋写真家の添畑薫さんも海の存在の大きさについてこんなことを言っていました。
「人間っていうのは海に生かされてるし、海に浮かんでるんですよ。いろいろな星の写真とか見ても、地球だけです、こんなに水に恵まれているのは。全体から見れば陸なんてたいしたパーセンテージじゃないし、その上に住んでる人間なんて宇宙から見れば、あるいは地球規模で見れば、たいした存在じゃないんですよ。どんなに肩に力入れてみても海の自然は人間の力じゃどうにもならない。もっともっと大きいものがあるわけだから、その中にいること、海と心の上でも調和していることが、とてもリラックスできる。どんなにつらいときでも海と一緒にいたほうが、自分はハッピーだなって思えるんですよ。自然の持つ力っていうのかな、魔力みたいなものがありますね」
自然と人間の関係を考えるとき、多くの方が人間が本来持っている「血の記憶」について言及されます。例えば写真家の浅井愼平さんはこんなふうに語ってくれました。
「一番大切なことは自然は怖いけれど、僕たちは自然に生かされているし、僕たち自身が自然だっていうことですよね。人間はいつの間にか、自分は自然じゃない、人間という特殊なサイボーグだと思ってしまっている、特に都会の人がね。それは怖いです。我々も壊れやすい生き物ですから。僕らの生きた時代よりも遥かに長い時代を生きた遺伝子、血というものが僕らの身体に流れているわけですね。その血の記憶のようなものを頭の後ろに置いておかないと。自分の生きてきた歴史だけで物を判断するよりも、忘れてしまっているような心の底にあるような声が持ってる真実というのがあるんです。それをいつの間にか、コントロールしてしまった気になっている現代人のおごりが僕たちの中にあるからそれをどうするか・・・」
さらにドキュメンタリー映画「地球交響曲/ガイアシンフォニー」のシリーズを通して、人間のあり方、心のあり方を問いかけている龍村仁監督も、こんなふうにおっしゃっています。
「自分のものの考え方、感じ方を作っているのは、自分が生まれてからの何年間かの経験が記憶として自分の中に残ってると、普通は思ってるでしょ。ところが実はそうじゃなくて、私たちが何かを感じたり、感動したり、判断したりする一番ベースには、私たちの人生、個人の人生を遥かに越えた記憶があって、象徴的にいえば5000年、一万年前の記憶なんていうのは、ホントはみんなの中にリアルなものとしてあるわけで、それを忘れて、私の記憶だけみたいな、私の経験だけみたいな感じで、自分のものだみたいにして生きている、このところにものすごい大きな我々の時代の不幸と、ある意味で言えば、そこから発想する『私さえよければいい』という何かが作っていく外側の大きな危機がある、環境危機も含めてね。『ガイアシンフォニー』という映画でいつも言ってきてるけど、『私たちの命は私たち自身の所有物であると同時に、35億年なら35億年という命が誕生してからの大きな流れの中に、今たまたま生かされているんだ』っていうようなこととか、『自分とすぐそばにある樹とか草とかいったものが、実は同じ命を分かち合う、別の姿であるっていう思いとか、そういうようなことをちゃんとリアルに思いださないと、多分今の私たちの、技術文明をどんどん進歩させて自分の便利さえよければいいというか、価値観が変わってこない。それを思いだす必要がある」
人間と自然のつきあいということを考えると、一番身近なのは、里山環境かもしれません。しかも、里山という考え方は日本特有のものであると主張する方もいました。自然写真家の今森光彦さんです。
「人間も自然の一部であるという日本人的な考え方というか東洋的な考え方ですね。それが西洋には真似できないんですね。西洋の人たちがあまり理解できないところだと思います。だから里山環境の提案というのは日本が、というかアジアがしていかないと駄目だなぁと、いつも思いますね。つまり、自然と一緒に生きているという事が、考えにくい。あの、共存という言葉があるじゃないですか。あれを“友達/FRIENDLY”と誤解されるんです。共生というのはFRIENDLYではないんです。独自に生きてるということですね。で、独自に生きてることがお互いに影響しあってるということが共生なんですよ。そこを取り違えると里山は理解できないんです」
風景を作る人、庭師としても活躍される俳優の柳生博さんも、世界中をロケで回った経験からこんなふうにおっしゃいます。
「人間と自然がとっても仲がいい風景というのは、必ず人が入っている、ないしは人の営みの形跡がある。例えば雑木林とか、田んぼとか、みんな人間が作ったものですよね。だから、かつて人間が生き物だったころね、そんなこというと寂しい話だけども、でもとっても生き物らしい生き物だったわけですよ、かつてはね。で、それで人間が作った雑木林で薪をとったり炭を作ったり、そこから肥料をいただき、とっても仲良く過ごしていたころの、仲の良かった時代のね。じゃぁ、これは世界中どこにでもあるのかといったら、これはね日本にしかないんです。この雑木林の風景って、意外と思うかもしれないけど、日本にしかないんですね」
さて、人間と自然の関係を考えていくと、どうしても避けては通れない問題に、子供たちの教育問題があります。未来をになう子供たちにこそ、環境教育が必要なわけですが、野口健さんは、子供たちの方がビビッドに反応するといいます。野口さんは現在、清掃登山に力を入れて活動しています。
「子供にとってはチョモランマも富士山も特別な場所なんですね。で、そこにゴミが一杯あるというところを写真とかで見せると、ショック受けるんですよ。そこから始まって子供は最終的に『お父さんはタバコを吸って、ポイポイ捨てる、あれはよくない』とかいってですね、子供が怒りだすんです。僕の講演が終わってから、『僕のお父さんはタバコを吸って捨てるんだぁ!』とか怒るんですね。『これからはお父さんに注意する!』とか言うんですよ。子供は逆に早いですよ、反応がストレートで。だから山に限らず小学校の子供と町の中にある公園や道を清掃しようということを考えてますけどね」
野口さんはこの言葉通り、今では子供たちとの清掃活動に熱心に取り組んでいますが、子供たちに対する教育に関して、この方は独特の理論を持っていました。芸能界きってのアウトドアズ・マン、清水國明さんです。
「世の中で必要なのは、はつらつとしてオリャア~と楽しんでる元気なじーちゃん、ばーちゃんの姿が目の前でうろうろしてたら、働いてる俺らもね、『あぁ、ああいう風になればいいのか、年取ったらあの世界が待ってるのか』と思ったら、年をとることをそんなに恐れなくなるじゃないですか。若さにしがみつこうとするのは、次にくるべき年よりの世界があまりはつらつとしていないからですよ。だから何とか若さにしがみつく。そうすると、いやいや生きてるようなジタバタしている大人を見ている子供たちは、『あぁ、あんな大人にはなりたないなぁ』となるわけでしょ。そうすると子供の時代が一番いいやと、今で私は充分満足できます。大人にいくとしんどいぞ、もっといくとあんなふうになるぞという見本が待ってたら、子供はね、今のままで終わってもいいやと思っちゃうんじゃないですかね。だからすぐ自分の人生投げ出す、自殺しちゃうとか、運動会中止にしてくれなきゃ死にますよ、てな事をいう。この先楽しそうなことが起こりそうもないと思うからあんなむちゃくちゃなことできるわけでしょ。大人が楽しんでる背中を見せる。そして大人は、はつらつとやっているおじーちゃんを目指すというようなね。日本に一番欠けてるのは、そういう派手なカッコして遊び回ってるおじーちゃん、おばーちゃんの姿だと思いますから、俺なんか、その先駆けになっちゃろうかなという気持ちがありますね。年とっていけばいくほど可能性を増やしていく、キラキラするっていう、そんなじーさん、ばーさんになろうやないですか」
さて、人間と自然との関係。大事なのはこちら側の自然との接し方だと思うんですが、 ここで私にとって指針とも言えるお言葉紹介しましょう。まずは、金峰山麓・山梨県川端下村に暮らす作家の田渕義雄さんです。
「自然というのは凄くリベラルだということですよね。自由平等というか、学歴とか身分とか収入とかどんな家に住んでるとか、そんなこと関係ないじゃないですか。自然趣味というか、アウトドア・ライフスタイルというのは、やっぱりカジュアルじゃないですか。カジュアルなものの中に日々の幸福とか、暮らしの実感とかいったものを求めはじめたというか。1年に1回か2回しか着ないような礼服に大枚払ってもさ、あまり意味がないということがわかってきちゃったわけでしょ。誰も見てくれないしさ。それより、雨降れば雨の音もいいな、風吹けば風も案外いいじゃないか、夕陽の色もきれいだし、キャンプの夜の、フクロウの声に耳傾けたりとか、幸せになりたければ自然と仲よくなるしかないんじゃないですか」
その自然の中での暮らし。沖縄在住の版画家、名嘉睦稔さんは野生児だと、いろいろな方がいいます。龍村仁監督は「彼は風の声が聞こえる、鳥や魚と話ができる」と言っています。そのことに関して名嘉睦稔さんは、こんなふうに語っていました。
「言葉がわかるというより、どちらかというと気持ちがわかる、気分がわかるといったほうがいい。でもそれはね、誰だってみんなわかるよ。魚の気分とか鳥の気分とか。ましてや風の気分なんて自分そのものだから、とっても分かりやすい。恋してるときの風って凄いでしょ。たくさんの情報持ってるように思わない? 秋の風ってさ、何かうら悲しくなるし、春の風はとっても希望を抱えてるように思わない? 風はだから、風自身がこれしかないという絶対的な答えをもって飛んでない。風は無数の答えというか、すべての答えをもって飛んでるんだよね。それが対象にぶち当たった瞬間、その対象が必要とする答えを運んでる。そんなように思えてならない。答えというのは自分の中に既にあって自分の中にある答えというのは、自分の中に帰結するんじゃなくて拡散して循環していく。風は循環のたまものだから、ましてや空気の揺らぎでしょ? 空気の中には古い太古の昔から地球の中にあった、原子や粒子、非常に小さなレベルのね。僕らの身体なんか簡単に突き抜けていくような存在が大気の中に満ちてるわけでしょ。それが揺らぐとさ、僕らの身体の中通るなんて簡単だよね。別の人の身体を抜けた原子が自分に入り込むことだってある。そういうものが太古の昔から持ってる情報も含めて吹いてる可能性あるよ。だから風が言ってることがわかるというのは、これは当然のことで、揺らぎなんだけど、生きてることを自覚させる大掛かりな装置のような気がするよね」
そして、作家のC.W.ニコルさんは、ご自分の体験からこんなコメントを残してくれました。
「シーカヤックに乗って、1人で旅をしていると、背中と顔と足は見えない。カヤックが自分の一部になる。じゃぁ、自分はなんだと。そういう大自然の中で1人でいると、こういう鳥が、僕を見てます。アザラシがみてる、クジラがみてる、トナカイがみてる。彼らの反応によって僕は存在している。彼らが僕を見てなかったら、感じてなかったら、俺は一体何? 俺はただの幽霊のような、何もない。だんだんと鳥の声、川の音、流氷の音、それから最後にはね、山の声が聞こえはじめたんですね。オーーーンって。いろんな山にいろんな声があるんですよ。そして、身体が軽くなる。目が、耳がよくなる。身体まで、精神まで変わったんですよ。自然の力。」
もちろん、500回の中には、これからの私たちがなすべきことについての示唆もたくさんありました。例えば星川淳さんは、「残す文化、残さない文化」というお話をしてくださいました。
「今まで文化文明というと、ピラミッドとか日本でいうと法隆寺とか、巨大で荘厳で、 そういうものが残っていると、『素晴らしい。こんな昔にこんなものを作っていた人たちは偉大だ』と言う文脈で語られることが殆どでしたよね。 それに対して、アラスカって、ぱっとみたときにはホントに手付かずの原野が広がっていて、少なくとも確実にわかっているだけでも1万年以上は生活文化として非常に洗練された文化を営んできているんですが、何も残ってない。ていうか、自然を残しているんです。殆ど手つかずに見える大自然を代々残していくということに価値を見いだしているわけですよ。先住民的な感性というんですか、何百代、何千代の祖先達が必死に生き延びてきてね、子供たち、子孫達を守っていこうとした祈りの大河の中にいるわけなんです。それを感じたときに、同じように何千代も未来までこの地球上で豊かに生きていくっていう決意のようなものが生まれると思うんです。そういう意味では『残さない文化』、なんか今の時代にね学ぶものがあると思うんですよ」
そして、脚本家の倉本聰さんは、北海道・富良野での暮らしを通して、森は切実なものであると気づかされたといいます。その上で、我々はもっともっと森のことを考えなければいけないと警告します。
「やっぱり里山を持ってる人たちが、つまり民有林保有者ですね。今、民有林を手入れしても木の値段が189円とかそんなものなんだからペイしないわけでしょ。だから、ただ森を持っててくれたらいいんだけど、何故かというと森っていうのは公益価値があってね、水と空気の清浄という重大な公益をなしているわけですね。それに対して、下流の民が(お金を)全然払ってないというのはいかんことですよ、いびつなことですよ。で、水に対して何を払うかっていったら、僕はやっぱり水源税を払うべきだと思う。空気の汚染を浄化してくれてるという機能に対しては、ガソリン税、特定財源だっていってる、あのガソリン税を回すべきだと思う。それを民有林保有者にお支払いしてそのお金の中で、きちんと下草刈りもし、枝打ちもし、森を新しく育てるという行為をしてもらわないと、里山も育ちませんしね。で、育ちすぎたときに、その年6%育ったら4%は頂いてもいいわけですよ。本来そういうものだと思いますよね。(AMY「ある意味ではそういった税というのは必要不可欠なものの管理をしてもらう管理人さんにお支払いする管理費のようなもの・・・」)そう。まさにそうです。管理費ですよ」
500回の放送の中から、ほんの一部の言葉でしたが、私達のこれからあるべき姿を考える大事なメッセージがたくさんあったと思います。
最後に我らがアニィ、風間深志さんに締めくくっていただきましょう。
「やっぱ、新しい21世紀っていうのは、みんなが急に共存だ、調和だって言いだしたけど、これが次の世代のテーマなんだよね。本当に自然と一緒になって仲良く生きていくっていうのが、新しい世紀の普遍的なテーマなんじゃないかなぁ。人間は幸せに生きたいからね、生まれた以上は。それにはやっぱ、自然と仲良くすんのが一番いいんよ」
オープニング・テーマ曲
「ACOUSTIC HIGHWAY / CRAIG CHAQUICO」
M1. HURTS SO GOOD / JOHN COUGAR
M2. DEEP DEEP OCEAN / BELINDA CARLISLE
M3. GARDEN OF PEACE / AMERICA
M4. FATHER TO SON / PHIL COLLINS
M5. HAPPY ANNIVERSARY / LITTLE RIVER BAND
M6. NATURE'S WAY / CHRISTOPHER CROSS
M7. FRAGILE / STING
エンディング・テーマ曲
「THE WHALE / ELECTRIC LIGHT ORCHESTRA」
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