2012年3月10日
明日で昨年3月11日に発生した未曾有の大災害、東日本大震災から一年が経過します。そこで今回は、「大震災から1年、あの日を忘れない。今、私たちにできること」をテーマに、NECの支援活動「TOMONIプロジェクト」をご紹介する他、NPO法人「RQ市民災害救援センター」の代表「広瀬敏通」さんに電話でお話をうかがいます。
※震災発生直後から国や地方自治体、民間企業、NPO法人などの団体、そして一般の方々による支援活動が始まりました。震災から一年が経過しましたが、復旧・復興にはまだまだ時間がかかります。大切なのは支援を続けることだと思いますが、NECは震災直後から救援物資や義援金を送っています。さらに震災から五ヶ月後に「TOMONIプロジェクト」を発足させ、継続的に支援活動を行なっています。今回、その活動内容などをご紹介します。まず、お話をうかがうのは今回のプロジェクトのマネージャーとして活躍されている、NEC・CSR推進部の村上雅彦さんです。NECが進めている「TOMONIプロジェクト」について説明していただきました。
村上さん「NECの社会貢献活動で、被災者を支援できないかということでできたプロジェクトで、これは大きく二つの内容に分かれています。一つ目は、既存の社会貢献プログラムを被災者の役に立てられるように変化させて支援していくというものです。二つ目は、社員を募って、グループを作って、被災地に入って活動をするというものです。」
●この「TOMONIプロジェクト」は、震災から五ヶ月経ってから活動を開始したそうですが、活動をスタートさせるまでの間に、準備を整えていったんですか?
村上さん「そうですね。私たちも初めての経験なので“いかに失礼がないようにするか”、“どうしたら受け入れていただけるか”ということを、現地に入って、NPOの方にたくさんのご意見をうかがったり、ボランティアセンターの方にお話をうかがったりして情報収集しつつ、“現地の方と触れ合うにはどうすればいいのか”ということを一生懸命考えて、その結果を元に社員に教育します。それと一緒に“TOMONI”の意味を説明しました。」
●具体的な内容についてうかがっていきたいんですが、まず“社会貢献活動プログラムでの支援”はどういったことを行なっているんですか?
村上さん「既存のプログラムでは、チャリティーコンサートやスポーツイベントを行なっているので、それらに被災者を招いたり、入場料などを寄付したりしています。」
●二つ目の“社員が現地に行っての支援”ですが、これはどういった活動をしているんですか?
村上さん「この活動がこのプロジェクトのメインとなっていて、写真が被災地に行って、“NECがみなさんと共にいる”ということを見せないと、心がこもった支援ができないと思います。なので、これが一番大きな支援活動で、昨年の7月に岩手県の陸前高田市に行って漁具の回収を行ないました。次が宮城県の七ヶ浜で、流された旅館の跡地の清掃をしました。さらに、宮城県の石巻市では泥の中に埋まった漁具を回収しました。
漁具って結構値段が高いものが多くて、これを回収すると、漁業が再開したときに使えるので、夏の暑い時期に頑張りました。また現在、宮城県の南三陸町には三回連続で行っているんですが、実はNECの既存の社会貢献プログラムに“NEC社会企業塾”という社会企業家を育成するプログラムがありまして、そこで勉強されている“戸倉復興支援団”の方々を支援するために、昨年12月から2月までの三ヶ月間はずっと南三陸町で活動をしています。」
●被災者からのニーズは、どうやって調べたんですか?
村上さん「市民のみなさんから直接うかがうのが一番いいんですが、それは難しいので、それらの意見を取りまとめているNPO・NGOがいるんですね。その方々にお話をうかがって、プログラムを決めています。」
●参加される社員の方はみなさん自発的なんですか?
村上さん「はい。強制ではありません。職場の事情など全てクリアにしてから参加してもらっています。」
●毎回何名ぐらいの方が参加されるんですか?
村上さん「大体50名ぐらいですね。首都圏からは40名弱、東北地方からは10名弱の社員が参加してくれています。今まで、社会貢献活動は会社で行なうものではないだろうと思われていました。ところが、今回のような、どうにかしないといけない状況になると『企業として社会貢献をしないといけない』という意識が芽生えたと思います。阪神淡路大震災がボランティア元年だと言われていますが、今回は、社会貢献に対する考え方の違いが明確になったんじゃないかと思いますね。」
※続いて、「TOMONIプロジェクト」に参加され、実際に被災地で支援活動を行なったNECの社員の方にもお話をうかがいました。ご登場いただくのはパーソナル・ソリューション技術本部の吉廣貴明さんとCSR推進部の佐久間玲子さんです。まずは、吉廣さんに参加した理由を話していただきました。
吉廣さん「私は九州出身で、自宅は横浜にあります。被災地の復興に直接関わりたいと思っていて、人道支援の一つとして参加しています。今回の震災発生時は、東京の九段下の近くにいました。大きな転落事故が発生していたので、ヘリコプターや救急車の音がものすごくて、被害の甚大さがすぐに分かりました。震災直後から、個人的に被災地にボランティアで行こうと準備をしていたときに、タイミングよくTOMONIプロジェクトが立ち上がったので、参加しています。
私はモバイル端末のハードウェアの研究・開発が主な仕事なんですが、個人的に災害救助ライセンスを持っていますし、自宅の修繕や庭工事などが趣味ですので、個人的に持っている工具や服装を使って、参加をしています。」
●自分のスキルを被災地の復興に生かせると思って、参加されたということですね。佐久間さんはどうして参加されたんですか?
佐久間さん「私は青森県出身なんですが、青森といえば八戸市が大きな被害を受けました。震災発生時は、NEC本社の29階にいました。都内に自宅があるんですが、そのときは徒歩で六時間かけて帰りました。実家にすぐ電話をしたんですが、繋がりませんでした。翌日、電話が繋がって『停電があったけど、大丈夫だよ』と話してくれました。本当は今すぐにでも行きたかったんですが、あまりに大きな震災だったので、まず“個人で行くにはどうすればいいんだろう?”と思ったのと、“実際に自分が行って役に立つのだろうか”という不安がありました。ただ、日頃からこういった社会貢献に関する仕事をしているので、今回のTOMONIプロジェクトが立ち上がったときに、海の匂いを嗅いだり、現地の人と話してみたいと思いました。ただ単に興味本位で行きたいと思ったのではなくて、被災者たちと寄り添いたいなと思って参加しました。」
●お二人は、どこに行ったんですか?
吉廣さん「私は、宮城県の七ヶ浜と南三陸町に行きました。」
佐久間さん「私は宮城県の南三陸町に行きました。」
●実際に被災地を訪れてみて、どう思いましたか?
村上さん「テレビなどでみなさんも見たことがあって、同じようなことを思ったかと思いますが、初めて被災地を見たときは、見たことがない風景が広がっていて、日本が痛めつけられたようで、すごく辛かったです。」
佐久間さん「私は東北出身なので、小さいころ家族で三陸海岸によく遊びに行っていたりしていました。ボランティア活動に行った日の海もすごく穏やかだったので、その海が街の全てを飲み込んだというのは信じられませんでした。津波に飲み込まれる前の街並みがどんな感じだったのか、私には分からなかったんですが、本当に何もなくて、周りを見渡すと三階建ての二階部分に漁船らしきものが乗り上げている姿を見たときに、『ここは日本なのかな?』と思ってしまいました。
でも、地元の方々は、海を悪く言っていなかったんです。黙々と自分の家を片付けていて、『聞いちゃいけないかな?』と思いながら、ある人に『ご家族は大丈夫ですか?』と聞いたんですね。たまたまだったとは思うんですが、その方は『みんな元気だった』って言ってくれたときには、他人じゃないような気がして、思わず『よかったですね!』って言いたくなりました。」
吉廣さん「毎回、一人で早朝の南三陸町に行くんですが、市の中心部に志津川総合病院という病院があるんですね。そこの正面玄関には亡くなられた方の祭壇があるんですね。これは車で通るだけでは見ることができなくて、歩いていけばそれを見ることができるんですが、毎回そこで一人で黙祷をしています。
街を歩いていくと、子供のスリッパやおもちゃのダンプカー、表彰状、野球のボールなどが地面に埋まっていたりするんですね。そういう風景を見ると、そこには人生の片鱗があったんだなということに衝撃を受けて、いつも目頭が熱くなります。
被災地に行く度に気づくことが二つあるんです。一つは、少しずつ復興が進んでいる気がします。例えば、信号機の数が増えていたり、志津川湾のイカダの数が増えていたり、仮設のコンビニが開いていたりしているのを目の当たりにします。もう一つは、海がすごくキレイなんですね。佐久間さんが先ほど“穏やかな海”と表現されましたけど、朝焼けの海が非常にキレイなんです。真っ暗な中から街が照らされていく姿を見ると、生きる勇気が沸いてくるんですね。被災していない私ですらそう思う場面がよくあります。胸にこみ上がってくるものがありますので、津波前の平穏な日々の生活を少しでも取り戻せるように手助けできればいいなと思います。」
※最後にプロジェクトのマネージャー・村上雅彦さんと、支援活動に参加された吉廣貴明さん、そして、佐久間玲子さんに、それぞれ今後の活動についてお聞きしました。
村上さん「“TOMONI”ですので、被災者からのニーズがある限り、できるだけ続けようと思っています。これからどんどん復興に向けて、要望が変わってくると思うんですね。個人レベルになっても、続けていくのは変わらないと思います。」
佐久間さん「私も現地の人が『NECさんはたくさん来てくれたから、もういいですよ』と言ってくれるまで続けたいと思います。今まで仕事でも接してこなかった社員とすぐに信頼関係が築けるということは、これまで経験したことがなかったんですね。これは、みんなの想いが、瞬間的にでも、一つになるからだと思うんですね。なので、本当に復興するまでは、みんなで行きたいと思います。」
吉廣さん「私も同じですね。こういったことは、継続が大切だと思います。私が住んでいる地域も、近所の方と日々助け合いながら暮らしています。今回の震災は、被災地に立つと、その甚大さが肌で感じます。復旧・復興までには非常に長い時間がかかると思います。
お寺を残して、その周りにあった35軒ほどの家が流されてしまった場所の瓦礫撤去の作業中でのことなんですけど、お寺は残ったものの、周りの住人は町外に出たり、仮設住宅に入ったりと、離れ離れになってしまったんですね。それでも女将さんは『寺は地域の象徴だから、夫婦でこの寺を守ります。いつの日か、みんながこの町に戻ってきてくれることを祈っています』と話してくれたんですね。非常に涙が出るようなお話でした。私は、そのお寺の周りにあった家がもう一度復活して、みなさんがまた戻ってくるところまで見届けたいなと思っています。」
※続いては、震災直後、すぐに支援活動を始めた「日本エコツーリズム・センター」の代表・広瀬敏通さんです。広瀬さんは現在、NPO法人「RQ市民災害救援センター」の代表としても活動をされています。そんな広瀬さんに、電話でお話をうかがいます。
●広瀬さーん! よろしくお願いします!
広瀬さん「よろしくお願いします。」
●広瀬さんは去年、震災直後に番組にご出演いただき、被災地の現状や支援活動についてお話いただきましたが、今回は主に今後の支援活動についてうかがいたいと思います。その前に、明日で震災発生から一年が経ちますが、今どんな気持ちですか?
広瀬さん「日本は“先進国”や“高度成熟社会”と呼ばれていて、私たちもそう思っているんですが、この震災によって行方不明になった人が、未だに3276人いて、津波によって建物などが流されたところは瓦礫が山積みになっていて、荒涼とした風景が広がっています。震災から一年も経っていながら、そういう状態に対して非常に悔しい想いがある一方で、被災された方々が楽天的なんですよ。今回のような被害にあっていながら、多くの人が自然現象として受け入れているんですよね。そのたくましさにすごく感銘を受けています。」
●広瀬さんは、震災発生直後からすぐに現地に入って、支援活動をされてきましたが、現在はどういった活動に一番力をいれているんですか?
広瀬さん「これまでの災害では、緊急支援が必要なときだけ活動をして、三ヶ月ぐらいで撤収をしていたんですが、今回はそのぐらいではとても撤収ができるような状況ではないので、今も様々な活動をしています。被災者の自立のための支援や、被災地やその周辺の地域支援というのが非常に重要になっていて、それができる体制を作ろうということで、私たちが8ヶ所運営していたボランティアセンターを、地元の住民と若い被災者、そしてボランティアの三者が所属する新しい地域団体を結成して、長期的な被災地の復興活動ができるようにしようということを考えていて、そのための研修を12月から続けています。」
●ということは、震災当初から支援活動の形も徐々に変わってきているんですね。
広瀬さん「変わってきましたね。」
●広瀬さんは、これまで継続して現地での支援活動をされていると思いますが、復興の進捗状況は、実際のところ、どうなんですか?
広瀬さん「進み具合は、それほどよくないですが、一方で漁業などに携わった方々が『政府の復興支援を待つことはできない』ということで、自立して、牡蠣やワカメの養殖を再開し始めました。私たちも、漁業支援でお手伝いをしているんですが、そういう人たちの活躍が、段々と周囲の人たちを元気付けていきますので、それを支えていきたいと思っています。」
●時間が経ったからこそ、新たに出てきた問題ってありますか?
広瀬さん「私たちは、宮城県の北部に現地の本部を置いているんですが、そこで、被災された方々から『福島県はここよりもっと大変だから』という話をしていたんですね。徐々に色々なことが明らかになっていく中で、実は宮城県や岩手県、さらに関東全域も、水玉模様のような高濃度の放射能の汚染地域があることが分かってきて、本部のある地域も、ホットスポットがいくつもあることが分かってきたんです。なので、福島第一原発からの放射能の問題って経済の問題じゃなくて、家族や地域、さらには国の存続の問題になってきているなという風に思っています。」
●今後も、継続的に支援活動が必要になってくると思いますが、首都圏に住んでいる私たちができることってありますか?
広瀬さん「これまで“ボランティア”という言葉がイメージされていたと思うんですが、これからは被災地を自分の目で見ていただきたいですね。実際に、被災者のみなさんも望んでいるので、そういうツアーがこれからたくさん行なわれるようになってきています。
それから、先ほど話した漁業や農業の再開にかなり苦労していますので、産業支援といった形で、個人の被災者のお手伝いをするという研修もありますし、仮設住宅で人との交流が失われている女性や高齢者の方が多いんですが、その方たちと一緒に編み物などの手仕事をして、作られたものを日本各地で販売しているんですね。そういった形で、現地に行っていただいたり、被災地の産物を買っていただいたり、被災者を招いて話を聞くなど色々な方法があるので、自分のできることをできる場所でやっていただけたらと思います。」
●最後に、リスナーのみなさんにメッセージをお願いします。
広瀬さん「まず、この災害と被災者のことを忘れないでいただきたいですね。次に、自分たちも、被災者という立場にいつなるか分からないので、そのために共に助け合う習慣というものを持っておいていただきたいです。最後に、災害ボランティアって、被災地を支援しているつもりでいながら、ボランティアである自分が一番学んだり、多くのことを得たりしているという実感があります。なので、そういうことを、是非ともやっていただけたらいいなと思います。」
●広瀬さん、今日は本当にありがとうございました!
広瀬さん「ありがとうございました。」
震災から一年が経ちますが、被災地のみなさんは今でも大変な思いをされています。そんな中、私たちに出来ることは広瀬さんのお話にもありましたが、なにより、被災地に思いを寄せ、震災のことを忘れないことだと思います。いつまでも、この支援の輪が続くように、できることをできるだけ長くしていきたいと思います。私も、被災地の物産を、これからもたくさん買っていきたいです。
NECが現在進めている震災復興支援プログラム「TOMONIプロジェクト」。どういった内容なのか、これまでどういった活動が行なわれたのか、気になる方はNEC内にある「TOMONIプロジェクト」のサイトをご覧ください。
以前この番組にもご出演いただいた広瀬敏通さんが代表を務めるRQ市民災害救援センターのこれまでの支援活動などが知りたい方はホームページをご覧ください。写真がたくさん掲載されているので、よく分かります。