今週のベイエフエム/NEC presents ザ・フリントストーンのゲストは、関野吉晴さんです。
探検家、そして武蔵野美術大学の教授でもいらっしゃる関野吉晴さんは、アフリカで誕生し、世界に拡散していった人類の足跡を逆ルートでたどる旅“グレートジャーニー”で知られています。また、2004年7月から2011年6月まで、7年という歳月をかけて“新グレートジャーニー”もやり遂げています。
この新グレートジャーニーは、日本人の祖先が日本列島にたどり着くまでの旅を再現。そのうちの海を渡る旅が先頃、ドキュメンタリー映画『縄文号とパクール号の航海』となって、全国で順次公開されています。
今回は関野さんに、その映画で描かれている小さな丸木舟での4,700キロの航海についてお話をうかがいます。
※今回の航海に使った舟は、全長が10メートル前後の小さな手づくりの丸木舟が2艘。そんな小舟でインドネシアのスラウェシという島から沖縄の石垣島まで、星と風と太陽だけを頼りに4700キロも航海しています。改めてその旅の目的はなんだったのかお聞きしました。
「最初の旅(グレートジャーニー)は“南米の人たちはアマゾンやアンデスの先住民として暮らしているけど、彼らの先祖はいつどのようになぜやってきたのか?”ということを知りたくて始めたんですが、徐々に“僕はどこから来たんだろうか?”って思うようになったんですね。“この日本列島に、いつから誰がどのように住み始めたのか?”ということを知る旅をしたいと思って始めたのが“新グレートジャーニー”なんです。彼らは色々なところからやってきたんです。メインルートはシベリア→サハリン→北海道経由で入ってきた北方ルートと、中国→朝鮮半島経由で入ってきた南方ルートに加えて、南の海から来たルートもあったはずだと思って始めたのが“海のグレートジャーニー”です」
●どこからスタートしたんですか?
「インドネシアのスラウェシ島をスタートして、ボルネオ島経由でマレーシア~フィリピン~台湾を通って日本がゴールですね。約4,700キロです。航海は1年の予定だったのが3年になってしまったんですね。なぜなら、予定していたスピードが出なかったんです。120キロ進むのに10日かかったので、1日12キロしか進めなかったということですね。なので、最初の年はフィリピンの南部に到達して、全行程の半分ぐらいしか行けなかったんです」
●その大変だったお話は後ほどうかがっていきたいと思います。まずは舟の製作に1年かかったということですが、その舟作りも大変だったんですよね?
「“素材は全て自然から取ってくる”というコンセプトで、単純なんですが複雑でもあったので、大変でした。最初は石器で作ろうと思っていたんですが、川ならいいけど、インドネシアから大海原を越えてくるには不安だったので、(石器はやめて)自然から素材を取ってきて作ることは徹底しつつ作りました」
●映画の冒頭で舟作りの模様も出てきますが、木を見つけて倒して掘るんですよね。「大変そうだな」って思いました。
「基本的には船大工に手伝ってもらったんですが、その棟梁は設計図なしで作るんですね。船大工には2種類のタイプがいて、山で木を伐って大まかな形を作るまでが“山の船大工”で、海に持っていって航海できる状態にするのが“海の船大工”なんです。僕がどんな舟を作りたいかを聞いた上で、山の船大工が大木をジっと見て、自分の中で舟のイメージを作るんですね。そして、“舟を掘り出す”ように伐っていくんですよ。だから、線を一切引かないし設計図もないんです」
●話が逸れてしまうかもしれないですが、龍村監督のガイアシンフォニー第八番で「能面を作るときに、能面打の方が木から掘り出して作る」とおっしゃっていたんですね。関野さんのお話を聞いて、それに近い気がしました。
「僕も龍村さんの映画を見ましたし、彼も僕らの映画を見ていたんですが、山、木、海と共通点が多いんですよね」
●今、繋がった感じがしました! 木の魂を掘り起こすように舟作りをされていたんですね。
「そうですね。船大工は木を伐る前に、バナナや卵、もち米、ココナッツなどを供えてアッラーの神にお祈りをしたんですね。その後に(彼は)伐る木に触ってブツブツ言ってたんですが、それは木にいる精霊に向かって“これから伐るから、他の木に移ってください”って頼んでたんですよ。だから、あの舟は祈りが詰まった舟なんですよ」
※今回の海上ルートの旅は関野さんの教え子2人を含め、日本人が4人、インドネシアのマンダール人が7人という構成で始まりました。なぜマンダール人だったんでしょうか?
「舟というと、エンジン付きになっているので、帆を使って動かすということが少なくなってきているんですね。ところが、マンダール人は“これは残した方がいい”という若い優秀なジャーナリストの言葉で(帆船の文化を)残しているんですよ。ただ、これは風任せになるから予定が立たないんで、漁だと不便なんですよ。だから、漁のときはエンジンの付いた舟を使うけど、“レース”という形で残そうということで、舟を作りだしたんです。“船の博物館”と言われているほど、色々な形の木造船を作っているんです。その中でもマンダール人は自分たちで舟を作っているので、彼らと一緒に行くことにしました」
※では、航海のスタイルはどうだったのでしょうか?
「太古の人たちに想いを馳せながら旅をしたいので、コンパスもGPSも使わないんですが、昔の人と僕たちが違うのは、彼らは日本に向かったわけじゃないと思うんです。彼らは10年で1つの島を越えられたらいいような感じで渡っていたら、日本に着いたっていうことだと思うんですね。それに対して僕たちは日本に向かって行かないといけないので、大まかなものでもいいから地図が必要なんです。あまり細かい地図を使ってしまうと、GPSを使わなくても位置が分かってしまうので、海図も止めて、大まかな地図にしました」
●映画の中では、空を見上げているシーンがありましたが・・・。
「GPSとコンパスを使わない代わりに、太陽と星を頼りに航海しました」
●そこで驚いたのが、マンダール人の視力ですよね!
「あれはすごかったですね! “舟が見えた!”とか“島が見えた!”って彼らが言ってから、僕たちも見えるようになるまで、かなり時間差がありましたね」
●かなり先にある島もクルーの人は見えてましたよね。もしかして、関野さんも長く乗っているうちに徐々に見えるようになったりしましたか?
「それはなかったですね(笑)。若い頃はありました。大学生になってアマゾンに行く前までの視力は1.2ぐらいだったんですが、アマゾンに1年行って帰ってきたら、2.0になってましたね。やっぱり星や空など遠くばっかり見ていると(目が)良くなるんですよね」
●そういうものなんですね!
※縄文号は全長6.8メートル、パクール号は全長11メートルで、帆を張って進む小さな丸木舟。左右に竹で組まれたイカダのような居住スペースがあるんですが、大人6人が乗ったら狭そうなんです。そんな舟で関野さんたちはどのように過ごしていたんでしょうか?
「大体ボーっとしてましたね(笑)。漕いでるときは他のことはできないです。風で動いているときは、方向転換のために帆を返すときは人手が必要ですが、それ以外は舵を握っている人以外はやることがないんですね。だから、食事の準備をしたり、釣りをしたりしてました。僕が歌を歌ったりすると、音痴なので若い人たちから“ノイローゼになるので止めてください”とか言われましたね(笑)。マンダール人たちはデッキの甲板の蓋をひっくり返してダイヤモンドゲームみたいなことをして遊んでました」
●釣りをしているシーンがすごく印象的だったんですが、皆さんやってたんですか?
「彼らは漁師なのでカジキやシイラ、カツオを釣ってましたね」
●それをキレイにさばいてましたね。
「さばくんだけど、彼らは刺身を絶対に食べないんですよ。刺身を食べるのは日本人だけです。大きな魚が獲れたときは刺身にしたり。中ぐらいの魚が獲れたときは焼き魚にしたりすると、たまに食べたりしてました。基本的には同じものを食べてましたね」
●食料は立ち寄った港で調達したものと釣ったものだったんですよね?
「そうですね。野菜と水と薪は島に寄って調達して、なくなったらまた寄るということを繰り返してました」
●トイレはどうしていたんですか?
「トイレは船体の上からはしちゃいけないんですよ。そして、舟をすごく大切にしていて、舟から足も出しちゃいけないんです。料理をするとき、素焼きの釜で薪を焚いていたんですが、薪の燃えカスを海に投げちゃいけないんですよ。なぜなら、海の精霊が火傷しちゃうからなんです。あと、薪を手で折っちゃいけないんです。それに、彼らは“漕ぐ行為も精霊を痛めている”というんですよ。だから、彼らは精霊に対してすごく気を遣っていますね」
●なるべく海の精霊に傷を付けないように気を遣っているんですね。
「とはいえ、思いっきり漕ぐんですけどね(笑)。でも、心の中で“申し訳ない”と思っているんだと思います」
※3年に渡る長い旅が終わり、ゴールの石垣島に入った時、どんな気持ちだったんでしょうか?
「ゴール入ったときはいつも同じなんですが、“あーやれやれ”って感じでしたね(笑)。石垣に着く前に、台湾を出て300キロ先にも島影がないところから島影が見えてきたときに、僕の中では“終わってないけど、大きな事故はもうないだろな”っていう、終わった感じがしてたんですよ」
●ちょっと寂しかったんですね。
「そうですね。みんなの中に“もう終わっちゃったの? もっと続けたいな”っていうのがありました。でも、縄文号がもうボロボロだったので、もたなかったですね」
●よくぞゴールしたって感じですね!
「本当にそうですね。途中から港に舟を着ける度に“どこから来たの? 本当にインドネシアから来たの!? 本当にエンジン付いてないの!?”って驚かれました(笑)。ほとんどがそうなんですが、国境を越えるときが大変ですね。見た目は舟じゃなく、巨大漂流物ですからね(笑)。怪しいものが来たということで、許可を取るのが大変なんです」
●その巨大漂流物と共に石垣島に到着したんですね。
「日本人のクルーの1人がマンダール人と共に、ゴールしたら僕を胴上げしようとしてたみたいなんですが、実際に到着したら役人の方から“代表者、来てください”って呼ばれて、所有物や舟の製作費などを色々聞かれました(笑)」
●急に現実的になりましたね(笑)。
「その間、みんなは上陸できないんですよ」
●結局、胴上げはなくなったんですか?
「なくなりましたし、なんとなく終わっちゃった感じでした(笑)」
●(笑)。ゴールはそんな感じだったかもしれませんが、この長い旅を通して色々と感じることも多かったんじゃないですか?
「異文化共生社会というのは、違いを認め合えればやっていけると思います。今回はその人間同士の関係よりも人間と自然の関係をより感じました。特に“自然は恵みを与えてくれるもので、自然がなかったら僕たちは生きていけない”ということをすごく感じましたね。
中でも太陽はすごく重要だということをすごく感じました。朝の海の上は風も吹いているので、すごく寒いので、太陽が上がってくるのを待っているんですよ。でも、それも時間が経ってくるとすごく暑くなってくるんですね。人間はすごく身勝手なもので、“早く隠れてくれよ!”って思っちゃうんですよね(笑)。
植物も太陽がないと生きていけないわけで、植物が光合成をしてくれるから有機物ができて、それを草食動物が食べて、その動物を雑食・肉食動物が食べて、それらを人間が食べるわけじゃないですか。だから、人間にとって太陽や植物がないと生きていけないわけですけど、嫌な存在でもあるわけですよ。でも、それはしょうがないですし、彼らをコントロールすることはできないんですよね。
ただ、僕たちには“科学”があるんですよ。“科学”は何に使うかというと、自然を知って、よりよくするために使うんですよね。台風が来るのは仕方ないんです。進む方向も変えられないので、僕たちはいかに予測して防ぐことに科学を使うぐらいしかできないんですよ。それにかかっていると思います」
●今回の関野さんの旅の模様を映画で見ましたが、本当に進まないじゃないですか。
「これは自然に任せるしかない旅なので、より自然に対する思いを感じましたね」
●でも、見ていて「これもアリだな」って思いました。時間の使い方がすごく贅沢でステキだなって感じました。
「40年以上、こういう好き勝手な旅ができたのは贅沢なことだと思います。よく“辛くて辞めたいときってありませんか?”って聞かれるんですが、一度もないんですよ。それは、もし(誰かに)頼まれてやっていたらすぐ辞めたくなったと思いますが、自分が好きで計画を立ててやっているので、辞めたいと思ったことはないんですよ。“太古の人たちもこうやって苦労したんだろうな”とか“こういうことに喜んでたんだろうな”と感じてました」
●そう思っているだろうなっていう幸せな表情を、映画で見ることができると思いますので、是非皆さんに見ていただきたいと思います。個人的には、関野さんの2人の教え子がどんどん成長していく姿も見所だと思うので、そこも注目していただけたらと思います。
※この他の関野吉晴さんのトークもご覧下さい。
“風任せ、波任せ”。そんな風に今回の旅を関野さんは振り返ってらっしゃいましたが、ゼロから手づくりした丸木舟“縄文号”と“パクール号”は、まさにその言葉通り。波に煽られ、風に流され、時には全く動かなくなってしまいます。この調子で日本に着くのかしら? 映画を見ながら私もヤキモキしましたが、無事にゴールに辿りついた時、色々なものが込み上げてきました。自然の力、仲間との絆。たくさんの事を感じさせてくれるこの映画。皆さんも、ぜひご覧ください。
関野さんの海上ルートの旅が記録された映画の上映予定です。
◎都内:8月に吉祥寺のカフェで上映会の予定
◎名古屋:シネマスコーレで6月27日(土)から
◎富山:氷見キネマで6月20日(土)から
関野さんの近況については、関野さんの公式サイトをご覧ください。