今週のベイエフエム/NEC presents ザ・フリントストーンは、シリーズ「“縄文人のLIFE STYLEに学ぶ”」第1弾! 千葉市「加曽利貝塚」の取材リポート、その前半をお送りします。
今からおよそ1万5000年前に1万年以上という、長きに渡って続いた縄文時代。なぜそこまで長く続いたのか。「人類史上最も豊かだった」とも言われている縄文時代の自給自足の生活に、今、密かな注目が集まっています。
そして、縄文人が加曽利貝塚周辺で暮らした年月はなんと! 2000年といわれています。なぜ一箇所に、そんなに長く暮らすことができたのでしょうか。
千葉市若葉区にある「加曽利貝塚」は明治20年、1887年にその名が学会に知られるようになり、その後、発掘調査が行なわれました。貝塚の特徴のひとつは、貝殻のカルシウムによって、ほかの遺跡では残らない動物の骨や歯などが、良い状態で保存されていること。特に加曽利貝塚は、幾重にも積み重なった貝塚の状態がとても良く、縄文人の暮らしぶりを復元できる、まさに「情報の宝庫」といえます。
そんな日本最大級の貝塚として知られている加曽利貝塚は、先ごろ、国宝に値する国の特別史跡に指定されました! シリーズ第1弾では、加曽利貝塚から発掘された土器や石器、貝や動物の骨、さらには縦穴式の住居跡などから、縄文人の知恵や暮らしに迫ります。
今回、いろいろ解説してくださったのは、加曽利貝塚博物館の学芸員、米倉貴之(よねくら・たかゆき)さんです。
※日本最大級の加曽利貝塚は、一体どれくらいの大きさなんでしょうか。
「広さでいうと約15.1ヘクタールありまして、東京ドーム3つぶんがすっぽり収まる大きさがあります」
●そんなに大きいんですね! 加曽利貝塚は日本で最大級ということなんですけども、これだけ大きな貝塚っていうのは、他では全くないんですか?
「そうですね。加曽利貝塚は“北貝塚”と“南貝塚”の2つに分かれています。北貝塚が縄文時代の中期、つまり今から大体5000年ぐらい前の貝塚になりまして、南貝塚は今から大体4000年から3000年前ぐらい、つまり縄文時代の後期になります。この2つの時代の貝塚が一緒にくっついた状態、“8の字”の形をしているというのが特徴です」
●それぞれ時代が違う貝塚が一緒にあるんですね!
「(2つの貝塚の)間は大体2000年間あります。この加曽利貝塚には貝塚を作った人たちが住んでいた、そういう史跡です」
●これだけ大きな貝塚があるということは、それだけたくさんの人がいたということなんですか?
「これだけ広い面積がありますので、大人数が住んでいましたね。いわゆる集落と一緒に貝塚がある、つまり“ムラ貝塚”と呼ばれるものですね。これが加曽利貝塚のひとつの特徴でもあります」
●他にはこういうムラ貝塚ってないんですか?
「千葉市内には他にも4箇所、国の指定史跡がありまして、荒屋敷貝塚、月ノ木貝塚、花輪貝塚、そして犢橋貝塚(こてはしかいづか)があります」
●ということは、加曽利貝塚を含めた5箇所が、ムラ貝塚なんですね。それだけ千葉市では縄文人がムラを作っていた、ということなんですね。
「貝塚だけでも、123箇所が千葉市内にあります。これだけの数がある市っていうのは、全国を見ても他にありませんので、千葉市は本当に“貝塚の街”と言っていいんじゃないかなと思います」
●それでは早速、その貝塚を見に行きたいと思うんですが、まずはどちらに行きましょうか?
「まずは、北貝塚から見に行きたいと思います」
※まずは、北貝塚にある竪穴住居跡の観覧施設を見てみます。
●かなり広い! テニスコート1面ぐらいの広さがあるんですけど、手前はボコボコした土の穴があるような、まるで火星のような感じですね(笑)! 奥には……あれはもしかして、貝殻ですか?
「そうですね」
●白っぽい貝殻が断層上にありますね。
「北貝塚っていうのは、いわゆる“ドーナツ型”をした貝塚です。真ん中に穴が空いているような場所に縄文時代の住居、つまり人が住む場所がありまして、その周りに貝を捨てていたというのが、北貝塚になります。ですので、今見ているように、奥の方に貝がいっぱい積んでありますけど、あれが円状に積まれていったのが、北貝塚ということになります」
●実際も、この貝塚と住居の間に段差、高さの差ってあったんですか?
「そうですね、今見てもらっている住居と、積まれている貝塚の貝というのは当然、住居が使われなくなった後に積まれていますので、時期差っていうのがあります。どれくらいのスパンで積んでいくかというのは、なかなか(推測するのは)難しいところではありますね」
●ちなみに、住居跡からは貝は出てきていないんですか?
「ここでは住居跡の中からは貝は見つかっていないんですけれど、場所によっては住居にある穴の中に貝を捨てている場合もありまして、これも実は“貝塚”になります」
●“貝塚”と一口に言っても、家の中に貝を捨てちゃうパターンと、家の外に捨てるパターンの、2つのパターンがあるんですね。
「ただ、あくまで家を使わなくなってから貝を捨てているんですけどね」
※奧のほうに進んで行きます。
「まず、ここの住居跡なんですけども、真ん中に3つの住居があって、これらが重なった状態であります。この住居の周りを見てもらうと、小さな穴がポコポコと空いていると思うんですけれど、この穴は“土坑(どこう)”と言いまして、ドングリなどを貯蔵するための穴だったりします」
●土に穴を掘って、そこで貯蔵していたんですね! そうなると、縄文人の食生活としては、貝塚にある貝だったり、穴を掘って貯蔵していたドングリだったり、そういうものがメインになっていたんですか?
「そうですね。縄文時代の主食といわれていたものが、クリとかクルミといった、木の実になります」
●貝はどうだったんですか?
「貝は当然、いっぱい食べているんですけれども、貝は通年獲れるものではないので、木の実なんかを秋に収穫した後に貯蔵して、それを冬場や春に食べられるように保存していたというのが、発掘調査でもわかってきています」
※続いては、北貝塚の断面が見られる観覧施設です。
●おお~! すごくたくさん、貝がある(笑)!
「かなり迫力があるんじゃないかなと思います」
●まるでモーゼの十戒のように、左右にバーンと土が割れて真ん中に通路がありますけれど、高さは3メートル近くありますかね?
「そうですね」
●その間には、もう貝がビッシリと埋まっていますが、見た感じではなんか、いろいろな土のバージョンがあるっていうんでしょうか、ボコボコしている部分もあったり、貝がすごくたくさんある層もあったりするんですけれども、これにはどんな違いがあるんですか?
「まず、下のほうを見てもらうと、(ネームプレートに)“竪穴住居跡”という文字が書いてありますが、先ほどの住居の観覧施設と同じで、こちらでも住居が使われなくなった後に貝を積んでいるんですね。また、“イボキサゴ”っていう貝の名前が書いてありますが、実は加曽利貝塚と東京湾の貝塚の大半が、このイボキサゴという、大体1センチから2センチぐらいの小さな貝がたくさん出るのがこの辺の貝塚の特徴なんですね」
●小さな巻貝ですね。かなりの量がみっしりと詰まっている感じですね。
「加曽利貝塚から出てくる貝っていうのは、ハマグリとかアサリとか、今の人たちも食べるような貝もいっぱいあるんですけども、私たちがあまり耳慣れない、このイボキサゴが全体の8割ぐらい見つかっています」
●イボキサゴって、今でも獲れるんですか?
「今ではほとんど獲れないんですけども、木更津の一部の港では今でも獲ることができます」
●ちなみに、米倉さんは食べたことはあります?
「あります。イボキサゴの身もそうなんですけど、これをシジミのスープみたいな感じで“イボキサゴスープ”で飲んでみたことがあるんですけど、調味料を何も入れなくてもしっかりした出汁が出て、本当においしかったです! ただ、食べごたえがないですね」
●だからこんなにたくさん食べていたんですかね。でも、これだけたくさんの貝が獲れる東京湾は、縄文時代から豊かな海だったってことですか?
「そうですね。今でもいろんな海産物が獲れると思うんですけども、実は“加曽利貝塚の近くまで海が来ていた”っていう誤解をされる方が結構いるんですが、ここから縄文時代の干潟まで、だいたい5キロから7キロぐらいの距離があるんですね。今でいう、知事公舎があるあたりです。なのでJRの千葉駅なんかは、海の底になります」
●じゃあ、そこから獲れた貝を運んでいたっていうことですか?
「そういうことになりますね。加曽利貝塚のすぐ隣にはですね、“坂月川”という川が流れています。この川を、例えばクリの木をくり抜いて作ったような、“丸木舟”っていう舟を使って干潟のほうまで出て、貝とか魚を獲って戻ってくる。そうやって加曽利貝塚の人たちは漁業をしていたんですね」
●へぇ~! 縄文人っていうと、漁業というよりもどっちかというと、狩猟のイメージが強かったんですが、漁業に関しても色々と工夫をしていたんですね。
「この場所は海にも近いですし、森や山にも近いので、海の資源と山の資源がどちらも取れる場所なんですね。これが、加曽利貝塚が2000年も続いた所以のひとつではないかなと思います。こうやって、狩猟で獲れたイノシシとかシカの骨も加工して、漁業の時に釣り針とか、魚を突くためのモリとかに使うなど、二次利用をしていました」
●今、この貝層を見た感じでは、そういった物は見当たらないですが、そういう物も加曽利貝塚からは出てくるんですね。
「そうですね。この後、南貝塚のほうも、貝層断面施設がありますので、そちらを見ていただくと、まず貝の大きさがどれくらい違うのかということと、中に入っている貝がどう違うのか、そして今言った骨なども入っていますので、注目してもらいたいと思います」
※それでは加曽利貝塚の、もう一つの貝塚「南貝塚」に行ってみましょう。
●こちらはどんな施設ですか?
「先ほど、北貝塚の貝層断面を見てもらいましたけれども、今度は南貝塚の貝層断面です」
●私、断面を見て、もう気づいちゃいました! 明らかに貝の大きさが違いますね。
「デカいですよね」
●北貝塚にもハマグリの殻がありましたけれども、こちらのハマグリは、大きいものだと北貝塚のよりも3倍ぐらいのものがたくさんありますね! 何でこんなに大きさが違ってくるんですか?
「先ほどの北貝塚は、縄文時代の中期、5000年ぐらい前になりますけども、この南貝塚は縄文時代の後期、4000年から3000年ぐらいの間の時期ですね。その間、約1000年ありますので、自然環境というのもハマグリが成長しやすいように変わったんじゃないかということですね。そういうものが貝の大きさでわかる施設になります」
●その1000年の間に、より豊かな場所になったということですね!
「実際に、縄文時代の後期あたりになると、縄文時代の遺跡の数も爆発的に増えるんです。それだけ人口も増える、ということは、食料も豊かになったということになりますので、それが貝の大きさにも表れていると思います」
●他にはどんなものがあるんですか?
「正面を見てもらうと、シカとかイノシシ、このようなものの骨が(南貝塚の貝層には)含まれています。おそらく、縄文時代の人が食べて捨てた骨ですね」
●あと、“クロダイ”って書かれているんですけども、これって、あの魚のタイですか?
「そうですね。縄文時代の人は貝ばかりを食べていたわけではなく、魚も食べていたんです。なので魚の骨、小さいものでいうと1ミリから2ミリぐらいの魚の歯も見つかっています」
●いろんなものを食べていたんですね。
「縄文時代の人は、我々が考えている以上にかなりグルメです」
※北貝塚、南貝塚と見学した後は、この貝塚周辺で縄文人がどういった暮らしをしていたのか知るために、当時の住居を復元した場所にやってきました。
●今、復元した住居の中にいるわけなんですが、屋根の素材は、カヤですか?
「そうですね。よく“藁葺き(わらぶき)”って言葉を聞くと思うんですけど、藁は稲で作っていますので、まだ縄文時代にはないんですね」
●なるほど! それで、当時と同じようにカヤを使っているんですね。骨組みは竹ですか?
「はい。ただですね、(この復元住居では)真竹(まだけ)を使っているんですけど、縄文時代には真竹はないんですね。篠竹(しのだけ)という細い竹はあったので、おそらくそういうものや木の枝なんかを屋根の部材にしていたんじゃないかと考えられています」
●そして、私たちの前には炉、現代風にいうと囲炉裏のようなものがあるんですが、おそらく縄文時代の人たちはここで煮炊きをしていたんじゃないのかなど、想像が膨らみますね!
「そうですね。今、家の真ん中に炉がありますよね。炉の真ん中に大きい土器を埋め込んだ状態で、その上に炭をおいて火を焚いて、深鉢(ふかばち)と呼ばれる土器を据え置いて、例えば水を入れたり。これが縄文時代の一般的な炉の形になります」
●常に火を焚いていた状態だったんでしょうか?
「その日の食事を作る時もそうなんでしょうけれど、寝る時もそうですね。冬場なんかはやはり寒いので、多少は火を起こした状態で寝たり、あとは今でいう明かりの代わりにも、おそらくなっていたんじゃないかと思います」
●お鍋のような方法で料理をしていたと思うんですけど、獲れた貝とか魚を煮て食べることが多かったんですか?
「縄文時代の土器というのは、一般的には煮るための道具になります。今、炉の中に入っているのが深鉢という、深さのある土器になりますけど、こちらの小さい土器、“浅鉢(あさばち)”といいますが、この土器の使い方は、おそらく食材を焼いたり、ドングリを炒ったりするとき、または食材を盛る時とか、そういう時に使ったと推測できます」
●土器にはいろんな用途があったんですね。
「ただ縄文時代では、一般的にはこの深鉢と浅鉢ぐらいしか形態がないんですね」
●そうなんですね。炉の上に、竹で編んだ板のようなものがあるんですけども、これは何ですか?
「これは“火棚(ひだな)”っていうものになります。実は、(以前に開催した)イベントの時に、石器で魚をさばいたんですけども、さばいた魚を火棚に吊るすと、炉の煙でいぶされて、くん製がいい感じにできるんですね。縄文時代の保存の仕方として、こういうやり方もあったのではないか、という推測を踏まえて再現しています」
●この住居はかなりの広さがあると思うんですけれど、当時は大体何人ぐらいの人が寝ていたんですか?
「どれくらいの人数が寝れると思いますか?」
●うーん…この広さだと、私の感覚では、10人から15人ぐらいだと思うんですけれど……。
「ああ……いいと思います」
一同「(笑)」
「今のような4人ぐらいの家族っていうのは、おそらく縄文時代にはあまりいなかったと思います。この住居で、大体7メートルぐらいの大きさがありますけども、これだけの広さですと、寝る場所には、麻で作ったような敷物とか、動物の毛皮のようなものを敷いて寝ていたと思います。横になるだけのスペースだと、10人から15人ぐらいは余裕を持って入れると思いますので、それぐらいの人数なら生活できるんじゃないかなと思います。その10人から15人ぐらいに血縁関係があったかというと、これはなかなか考古学でも難しいところですけども、同じ集落に住んでいた人たちというのが、今のようなご近所さんというよりも、もっと近い、親戚のようなものだと考えていいと思います」
●確かに、実際に竪穴住居に入ってみると、人との距離が近くなるというか、仲間と仲良くなれそうな雰囲気がありますね。
「加曽利貝塚博物館で10月に“ナイトミュージアム”というイベントを行なったんですけど、夜に明かりのない、炉の火の明かりだけの生活を、一般のお客さんに(竪穴住居に)入って体験してもらったんですね。その時、“暗くて心細い”といった意見は全くなくて、逆に“温かみのある生活だなと感じました”という意見をもらえました」
※この他の「“縄文人のLIFE STYLEに学ぶ”」のシリーズもご覧下さい。
狩猟民族の縄文人が2000年も同じ場所に定住していたとは驚きでした。狩猟が中心の彼らが、なぜ同じ場所で「持続可能な生活が出来たのか」。貝塚に残るたくさんの貝殻やどんぐりの貯蔵穴を見ると、豊かな海と山の幸が大きな理由の一つなのかもしれません。でもそれ以外にも何か、彼らが長く暮らせた秘訣がありそうです。番組では今後もそんな「縄文人のライフスタイル」に迫っていきたいと思います。
※後半のレポートは2018年1月13日の放送回をご覧下さい。
国宝に値する「国の特別史跡」に指定された加曽利貝塚ですが、実は発掘が済んでいるのは、敷地の7%のみなんです。今後、発掘が進めば、きっと新たな出土品が見つかり、より縄文人の暮らしぶりがわかるかもしれません。
そんななか、半世紀ぶりに本格的な発掘調査が行なわれていて、その成果を公開する現地説明会が実施されることになりました。日時は12月2日(土)の午前10時からと、午後1時からの2回。詳しくは千葉市のオフィシャルサイトをご覧ください。