今週の、ベイエフエム/ ザ・フリントストーンのゲストは、縄文研究の考古学者、国立歴史民俗博物館、総合研究大学院大学の教授・山田康弘(やまだ・やすひろ)さんです。
山田さんは1967年、東京都生まれ。筑波大学卒業。現在は千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館、そして総合研究大学院大学の教授としてご活躍されています。専門は、縄文時代の社会構造や精神文化の研究。その一方で、考古学と人類学を融合した研究分野の開拓を進めています。そして今年2019年、講談社現代新書の一冊として『縄文時代の歴史』を出されました。
この番組でも何度か取り上げてきた縄文時代。今回は約1万年以上続いたとされる縄文時代の多様性に着目します。時代や地域ごとにどんな違いがあるのか、そして自然と共存していた縄文人の暮らしぶりについて、教えていただきます!
※私たちが教科書で習ったことだけではない、まだまだ知らない縄文時代がありますよ!
「縄文時代っていう、この枠組み自体は、実は日本にしかないんですよ。世界史レベルでいうと、例えば“新石器時代”という言い方があるんですけども、そこには農耕と牧畜があるんですね。ところが縄文時代は、基本的には狩猟・採集・漁労、それから最近では、一部では豆とかエゴマ、シソ等々の栽培というのが、かなり言われるようになってきました。
それから一番大きいのが、定住したこと。この定住生活が始まることによって、基本的にその集落の周りで、いろいろな食べ物を調達しなきゃいけなくなるわけですね。そのための、さまざまな技術革新ですね、例えばドングリとか栗とか栃(とち)とか、そういったものを利用するようになるんです。
ところが、栃とか一般的なドングリは、凄くタンニンとかサポニンといった“アク”がありますから、それを抜くための技術が凄く発達する。それから一般的には、縄文時代の食料だけでは塩分とか甘味が足らないんですね。だから、彼らは海水を使って塩を作ったり、そういうさまざまな技術革新を行なっていくんです。
一方で、定住生活がずっと進んでいくと、人々にさまざまな“ストレス”が起こってくる。例えば、我々は旅に出ますよね。それによってストレスを解消したりとか、気分をリフレッシュしたり、それができないと“ちょっと模様替えをしよう”とか、そういうことをするんですけど、昔の人は遊動生活をすることによって、脳に刺激を与えることができたんです。
ところが定住生活をするようになると、今度は周辺の景色がそんなに変わらなくなってくる。そうなった時に、人間の脳にはさまざまなストレスがかかってくる。それがもとで諍(いさか)いを起こしたり、あるいは食べ物の量が不安だということで、その配分量を巡っていろいろと揉めたりだとか、人間関係で揉めたりだとか、いろんなことをしていくわけです。そうすると今度は、そこにムラの掟だとかルール、そういったさまざまな取り決めが作られていく。それをひとつの“社会の複雑化”と僕らは呼びます。
それから、ゴミを捨てる場所ですよね。それまではその辺にポイポイって捨てて、移動しちゃえばよかったんですが、ゴミを捨てる場所がバラバラだと、ゴミ屋敷みたいになっちゃうわけですから、そうならないようにゴミを捨てる場所、つまり貝塚ですよね。貝塚は必ずしもゴミ捨て場ということだけではないんですが、まぁそこにゴミを捨てていく。
それから、トイレはどこでするんだとか、さまざまな作業をどこでするんだとか、そういった形でムラの中を、言わば都市計画ですね、そういった形で使い分けをしていく。そういう意味では、縄文時代というのはまさに、現代社会とさまざまな部分で陸続きになっている、そういう時代ですね」
※定住したことによって、縄文時代にある特徴が出てきたそうです。それは一体どういうことなんでしょうか?
「まず、縄文時代や縄文文化っていうのが、これまでの研究でわかってきたことをベースにしますと、非常に多様なんですね。例えば、北海道には北海道の独自性があるし、九州、特に例えば南部であれば南部の独自性があるし……ということで、各地で確かに狩猟・採集・漁労というところはベースにしながらも、いろんな生活形態があったらしい、ということが見えてきたんですね。そうして見るとですね、北か南か、西か東かという、つまり地域差ということになると、例えば関東地方から中部・高知、東北もそうかも知れません、そういったところでは縄文時代の前期〜中期ぐらいにかけて、かなり大きな集落ができます。
だけども一方で、西日本でそのころのムラっていうのは、ほとんど見つからないくらいなんですよ。むしろ、あっても住居が1〜2棟で、そんなに大きいムラはないんですね。だから、そういった意味では、住まい方というのが西と東で違う。恐らくそれは、東日本の方が定住性が高く、困ったことが起きて、動きたいと思っても、もう希望する先には人がいるわけなので、動けないんですよ。ひとつのムラっていうのは、いろんなネットワークで繋がっていますから、勝手に動いちゃってなくなっちゃうっていうことは出来ないんですね。そうすると、どんどん東日本では、ずっとそこに定住していなきゃいけないっていう、そういう話が強くなってくる。
だから逆に、“祈る”という方法も使って考えたわけですね。その呪術・斎主(さいしゅ)の在り方が西と東で、住まい方によって大きく変わってきちゃっているっていうのは多分、言えるんだろうなと思います」
●祈り方の差っていうのは、どんな差があるんですか?
「結局、今申し上げたように、東日本では定住性が強くなってくる。そうすると、その限られた地域や空間の中から、食べ物とかそういったさまざまな資源を持って来なきゃいけないわけですね。そうすると、その資源をなんとかたくさん欲しいということで、彼らはもちろん技術革新をしていきます。
そして、使えるものはできるだけ無駄なく使おうという方向にも、もちろんいくんですけれども、一方では“祈る”という、極めて観念的な方法で、食糧の増産だとか、さまざまな資源の確保というものを考えようとしていくわけですね。
結果として、土偶だとか石棒(せきぼう)だとか、そういった呪術具がたくさん出来ていくわけです。しかも、定住していますから、そこで繰り返し繰り返しそういった祭祀や呪術が行なわれてくる。
ところが、西日本の方は、食べ物が少なくなってくると、“じゃあ、動きましょう!”ということが出来るわけですね。そうすると例えば季節によって動くだとか、あるいは2〜3年そこに住んで、ちょっと周辺で(食べ物が)採れなくなってきたら動こうとか、そういう形である程度、移動が出来ます。となれば、逆にいうと、祈らなくていいわけですよ。だから西日本、特に中国地方とかでは、土偶というのはほとんど見つからないんですね」
*縄文時代といえば、もうひとつ欠かせないのが、土器! この土器からも、縄文時代の多様性が見えてくるそうですよ。
「土器の模様ですよね。本当にただの鍋として使うんであれば、模様なんか全く要らないはずなのに、いわゆる火焔土器(かえんどき)と言われるような、長野県から新潟県にかけて、炎が燃えるような形をした土器ですとか、それから水煙土器(すいえんどき)という物凄い取っ手がついたような土器が、中部・高知を中心にあったりするんですけど、本来、ああいう取っ手とかは要らないですよね。
だけれども、恐らくなんですが、縄文時代の人々はただ単に土器を鍋、あるいは入れ物や盛り付ける器とだけしか考えていなかったのではなく、例えば土器の中に亡くなった赤ちゃんを入れて埋葬したりとか、そういうこともするんですね。
ですから、土器というものが単なる入れ物ではなくて、例えば女性の母体や女性の体をうつしたものだと考えられていたり、そういうさまざまな呪術的な想いっていうのがかなりあったようなんです。その呪術的な想いっていうものが多分、土器のああいった文様だとか造形ですね、大きな取っ手なんかになっているんだろうと(考えられています)。
僕自身も、青森県の薬師前遺跡(やくしまえいせき)という所に、60歳を超えた女性が埋葬されていた、そういう土器をずっと観察していたら、恐らくワラビかなんかだと思うんですけど、それが土の中から芽が出てどんどん成長していく、という場面がグルンと土器の周りに描かれている、そういう文様があることにも気がつきました。
全部が全部そういうことかどうかはわからないですけど、ということは、縄文時代の人たちは何らかの想いを、あの文様の中に託している。今の僕らには渦巻きにしか見えないし、粘土を貼っただけにしか見えないし、何だか四角く区画してあるだけにしか見えないんだけれども、彼らにとっては、そのひとつひとつが、さまざまな意味を持っている。だからひょっとしたら、そういった文様が繋がっていくことで、それをグルっと見ると縄文時代の神話だとか物語だとか、そういったものが描かれているのかも知れないですね。
そういうのを僕らは“物語性文様”と言ったりするんですけれど、そういうものがたくさん描かれるのは、やっぱり東日本に多いですね。そういう所と、そうじゃない所があるらしい。だから、この辺を一括で全部、縄文土器としてしまっていいのか、という問題はあるんですが、多分、土器の文様とか形には、そういったさまざまな想いだとか神話、物語が入っているんじゃないかなと思います」
※ところで、縄文人ってどんな性質を持った人だと思いますか? 先日、気になるニュースが発表されましたよね。それは北海道・礼文島(れぶんとう)の船泊遺跡(ふなどまりいせき)から発掘された、およそ3500〜3800年前の縄文時代の女性の歯から抽出した全ゲノムを、世界で初めて高精度な解析に成功した、というニュースでした。
その解析からわかってきたことは、例えば縄文人はアルコールに強い、耳あかが湿っている、肉食に適している、など……。そして、遺伝情報から復元された女性の立体的な顔も改めて公開されました。今後、研究が進めば、現代の日本人との関係がさらにわかってくるそうです。
また、この研究では、縄文人が比較的小さな集団で生活していたこともわかってきたそうです。では、その集団同士が交流することはあったのでしょうか?
「縄文土器って結構、持ち運びされるので、遠いところからも出るんですね。例えば東北地方の土器が九州から出たりとか、関東地方の土器が東海地方から出るというのは結構、ザラにあります。ですから、そういうのは人の移動の結果とみる場合もありますよね。
あと、各地にいろんな土器があるんですよというお話をしましたが、やっぱり似たような土器が一定の分布圏を作るんですよ。民族史的にみて、土器は女性が作る場合が多いので、女性が結婚で移動していった範囲なんじゃないかという人もいます。
だから、そういった意味での見方もありますよね。我々、考古学者はそういうふうに、遠いところで似ている(土器があった)場合は、交易や婚姻があったと考えることが多いですね」
●結構、交易とか婚姻っていうのは、縄文時代は盛んだったんですか?
「盛んだったと思いますね。縄文時代早期ぐらいの集落の頃だと、ほとんどひとつの集落の中で、何とかいろんな食べ物を取ったり、いろんなことを完結しようという傾向が垣間見えたりするんですけれども、その集落の数が多くなって、縄文時代中期以降になってくると、どうも集落の中でいろんな役割分担が出てくるようなんですね。
例えば普通の貝塚だったら、それこそ加曽利貝塚のようにいろんな土器だとか動物の骨だとか、生ごみを含めて、いわゆるゴミが捨ててあったりするんですけど、東京都北区にある中里貝塚には、ハマグリと牡蠣しかないんです!
そういう貝塚のことを“ハマ貝塚”って言うんですけど、海岸線に近いところにできる大きな貝塚っていうのは、恐らくそこで一生懸命、貝を獲ってきては煮て、干し貝を作っている。その干し貝を今度は、そこの特産品として山間部だとか、あるいは中里貝塚は武蔵野台地のすぐ真下にあるんですけど、その武蔵野台地の上には集落がありますから、基本的には物々交換だと思うんですけど、そういうところにずっと搬出しています。
ですから、例えばヒスイだとか黒曜石だとか、そういう特産品みたいなものがあって、いろんな形でそれらが交換されていく。早期ぐらいの段階は多分、集落の人はダイレクトに(それら特産物を)取りに行っている可能性が高いんですね。
だけれども中期以降になってくると、今度はそうじゃなくって、少し近い所で、関係性の強い所に“ちょっと、黒曜石を頼むよ!”とお願いをして、それが伝言ゲームみたいになっていったのではないか。黒曜石は火山性のガラスですから、採れる所が決まっているんですけれども、そういうムラに行って、そして今度はそういうところから黒曜石がやってくる。
そういう、今でいう“ネットワーク”ですよね。物流ネットワークというものが、今はインターネットで凄く早いですけど、その当時から、凄く時間はかかるけれども、どうもあったんだろうと思われます。だから、そのネットワークを通じて、黒曜石だとかヒスイだとか、あるいは塩だとか琥珀(こはく)だとか、いろんな物が交換されていた。
そのネットワークを作るために何が起こったかというと、多分、婚姻なんですよ。ムラとムラを強く結び続けるには、婚姻関係が成立している、そういう状況が一番強いわけです。つまり、血縁関係者だとか親戚がいる。それを手広く、繰り返し繰り返しやっていく……。そういう形で多分、ネットワークを作っていったんだろうと思います。
だから僕も、いろんなところで申し上げるんですが、縄文時代には恋愛結婚はなかったんだろう、と。そうじゃなくて、人口規模がもともと小さいですから、例えば、ここの子とあそこの子の間に生まれた子供は、かなり幼いうちから“どこに行くか(嫁ぐか)”とか、“誰と結婚するか”というのは結構、決まっていたんだと思います。
そういった婚姻関係が、いろんな形でずっとムラの間で繋がっていって、そういうネットワークができている。だから、食べ物を含めた“物資”、それから場合によっては人の交換も、その交易ルートというか、ネットワークの中で行なわれていっている。それが縄文時代の社会の在り方なんだろうと思います」
※今の私たちにも通じる縄文時代ですが、そこから私たちが学ぶことはあるのでしょうか?
「それは当然、あります! 縄文時代には蓄積があるので、例えばアウトドアだとか、植物に関する知恵というのはどんどん、蓄積されてきているんだろうということは思います。ただ、誤解しないでいただきたいところがあって、“縄文人が自然の中にいる”って言うと、“原生林の中に住んでいる”というふうに考えちゃう方がたくさんいらっしゃると思うんですね。ところがそれは、大きな間違いなんです。
縄文時代の人々は、定住生活を始めるようになりました。その結果、何をやったかというと、まず自分たちの集落、ムラを作る、自分たちの住むところを作るために、周辺の木を伐採します。そして拓(ひら)けて日当たりのいいところを作ります。場合によっては、火入れをして、森を焼いて自分たちの住める場所を作り出していく。
そういった広い空間を作り出して住むんですけど、その空間に、今度は従来の原生林にはなかった、二次的なもの、例えばそこに栗や漆、アズマネザサとかいろんなものを持って来て埋めたりと、自分たちの生活に役立つ植物を彼らはそこに植えるんです。そうして二次林を作り出すんですね。
これは、実は世界各地、いろんな人々がやっていることですね。アマゾンとかでも“Domesticated Landscape(ドメスティケイテッド・ランドスケープ)”という言い方をしたりするんですけど、原生林の中に人が住んでいるんじゃなくって、それを一回、切り払った形で、自分たちに都合のいい自然を作り出す。いわば“里山”ですよね。そういうものを作り出してやっているんです。
ただ、彼らがいくら森を切り開き、あるいは焼き払って空間を作ったとしても、彼らは結局、石斧や打製石斧っていう、刃先をつけた堀棒とか、そういうもので自然の開発を行なっていますし、それから人口が少ないので、自然の回復力の方が勝るんです。ここが、大きい(重要な)ところ。ところが産業革命以降は、ユンボだとかさまざまな道具を使ったりして木を切り倒したり切り開いていったりする。そうなると、なかなか自然の回復っていうのは追いつかないわけですね」
●そう考えるとやっぱり、自然の回復力と、人間のパワーのバランスっていうのが大事なんですかね?
「そうですね。多分、彼らはそれを一番、考えていたと思います。だからもし、自然と共生していくっていうのを彼らに求めるのであれば、例えば動物をどう獲ったら、次はどうなるかとか、そういった見通しの部分できちんとバランスを取っていただろうということは、多々感じるところがありますね。
だから、何事も必要最小限に彼らは抑えている、そこが凄く重要なところなんだろうと思います。集落のランドスケープ、つまり自然景観ですね、そういうものを見ていった時に、やっぱりしばしば感じる部分ですね」
●本当にその辺りは、私たちが学んでいきたいところですね。
「そうですね。学ぶという言い方ももちろんありますし、それから、今だったらさまざまな形で体験するっていうこともたくさん出来ますよね。例えば、ひとりで森の中で過ごすということが、どういうことなのかとか、仲間内だけでもいいし、アウトドアでも何でも、上級者の方はソロキャンプをしたり……。
僕も何回か経験があるんですけれど、やっぱり火をひとりで炊いて、森の真っ暗闇にいるとなると、いろんなものが蠢(うごめ)いていると思うわけですよ。彼らの生きていた世界っていうのは多分、そういった自然の、言い方が難しいですけれど、精霊というか、そういったものがたくさんいる、つまりアニミズムの世界ですよね。そこがやっぱり、強いだろうと思います。
でも、それは今でも十分、体験できると思うんですよね。だから、自然との関わり方っていうのは、“これだけ開発が進んできているから、もうダメだ……”って諦めるんじゃなくって、それは我々がどう考えるかによって、至る所で体験できるだろうと、縄文を観ていると思います」
※最後に、山田先生が責任・監修した、国立歴史民俗博物館のリニューアルの見どころをうかがいましょう!
「第一展示室が開室したのが1983年でしたかね、そこから30年以上経っているということで今回、年数をかけてリニューアルをしたんですけれども、大きく6つのテーマで出来ています。ひとつは、旧石器時代の人たちを中心に描いた“最終氷期に生きた人々”。その次が“多様な縄文列島”。そして弥生時代を中心にした“水田稲作のはじまり”。古墳時代に入ってくると“倭の前方後円墳と東アジア”。そして“古代国家と列島社会”など。ということで、大きなテーマを6つ、設定しました。
歴博(国立歴史民俗博物館の略)の展示というのは、実は“テーマ展示”という言い方で、時代ごとに綺麗に切っていないんですよ。それぞれ、何が大切かということ(に注目しています)。住まい方についてなら、住まい方を(ひとつのテーマとして)通す。あるいは経済的な稲作が大切なら、稲作を……。ということで大きなテーマを作って、それを6つ用意しているということが一番、他の博物館とは違う特徴だと思います」
●私も見に行かせていただいたんですけれど、見どころ満載で、展示物が凄くリアリティあるんですよね! その時代がそのまま浮き出てくるような感覚があって、もっと深くいろいろと縄文時代のことを知ることができたなと思います!
「自然が回復する力と、人間の力のバランス」それを知っていたから、縄文人はここまで長きに渡って繁栄出来たのかもしれませんね。私たちが今、学ぶべきこと、そのヒントが縄文時代にはまだまだありそうです。
講談社現代新書 / 税込価格994円
今回のお話にも出てきた縄文土器や定住生活、社会の複雑化など興味深い話が満載です。縄文のすべてがわかる決定版とも言える一冊です!
詳しくは、講談社BOOK倶楽部のHPをご覧ください。
そして、今年2019年3月にリニューアル・オープンした、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館の総合展示を、ぜひご覧ください! 日本列島に人類が出現してから、古代国家「日本」が誕生し、変遷していく10世紀頃までのおよそ3万6千年間を、8つのテーマにわけて展示。リアルに縄文時代の暮らしが再現された展示や、縄文時代にタイムスリップした気分で撮れるフォトスポットもあったりと、見どころ満載です!
アクセス方法など、詳しくは国立歴史民俗博物館のHPをご覧ください。