“ロングトレイル”。アウトドア派の方たちにとって、今や馴染みのある言葉じゃないでしょうか。そんなロングトレイルを日本に紹介したのが、バックパッカーであり作家の「加藤則芳」さんです。加藤さんは、国内外の自然をテーマにエッセイや紀行文を数多く発表。特にアメリカ西海岸にある「ジョン・ミューア・トレイル340キロ」、そして東側にある「アパラチアン・トレイル3500キロ」を完全踏破され、それぞれのガイドブックを出されたことでも知られています。そんな加藤さんは4月17日に難病の筋萎縮性側索硬化症のため、亡くなりました。享年63歳でした。加藤さんとこの番組とのお付き合いは長く、95年4月の初出演以来、電話出演もいれると18回ご出演いただき、示唆と叡智に富んだ言葉をたくさん残してくださいました。そこで今回は加藤則芳さんの追悼番組。これまでのインタビューを再構成したスペシャル・エディションをお届けします。
※加藤さんに初めてこの番組にご出演いただいたのは95年4月8日。このときは自然保護の父、国立公園の父といわれる“ジョン・ミューア”のことを書いた本「森の聖者」を出したときでした。それでは記念すべき初出演の模様を、当時の放送から抜き出して、そのままお送りします。インタビュアーは、この番組の初代パーソナリティー、エイミーさんです。
エイミー:この“ジョン・ミューア”という人って、おそらく日本では馴染みがないんじゃないかと思います。簡単にいえば、どういった方なんですか?
「ジョン・ミューアは“自然保護の父”といわれているんですが、カリフォルニアにはシエラネバダっていう山脈があって、そこをベースに山篭りを5年間していたんですね。世界で一番最初に作られた国立公園は、アメリカのイエローストーン国立公園なんですが、この公園はジョン・ミューアよりも前の時代に作られた国立公園なんですね。その次に作られた公園はヨセミテ国立公園なんですね。現代の国立公園に関する理念というのは、ヨセミテ国立公園ができてからなんですよね。そのヨセミテ国立公園の完成に大きく貢献したのが、ジョン・ミューアなんですよ」
エイミー:そういった意味では、ジョン・ミューアってすごい人なのに、日本では全くといっていいほど知られてないですよね。今回出された「森の聖者~自然保護の父・ジョン・ミューア~」という本は、そんな彼の入門書といった感じで書かれたんですか?
「そうですね。一応、伝記のようなスタイルで書いたんですが、イメージでは“啓蒙書”ですね。もっと彼のことを知ってほしい、啓蒙したいんですよね」
エイミー:私はまだ全て読んではいないんですが、基本的なスタンスとしては、街に住む人々に自然の素晴らしさや美しさを知ってもらうことが、一番大事なことだということも訴えているんですよね?
「そうですね。彼が国立公園を発想したのは、『素晴らしい自然があったとしても、一般の人に知ってもらわないと意味がない』というところがキッカケなんですね。国立公園の目的は、“自然保護”と“観光も含めた利用”なんです。どんなに素晴らしい自然でも、それを守ろうという気持ちを起こすには、それを見ないといけないんですよね」
エイミー:確かに、行ったところのないところに対して「すごくキレイだから、保護しないといけない!」って言われても、自分にとってあまりにもかけ離れているせいで、実感が沸かないから、自分がどこまで破壊しているのかが分からないんですよね。そういう意味では、まさしくのテーマだと思いますが、加藤さんも“日本のジョン・ミューア”と呼ばれたことがあるそうですね?
「そんな、とんでもない! ただ、この本の序章のところで書いたことがあるんですが、数年前に、シエラネバダの山の中にある“セコイア国立公園”という公園にあるコイア・ツリーが林立している森が林立している森の中を、クロスカントリースキーで歩いたことがあるんですね。そのときに一組だけ会ったんですね。その人たちは、オークランドに住んでいる40歳ぐらいの夫婦だったんですが、立ち話をしている中で、『木が好きで、国立公園が好きで、そういうことを書いたり、自然のことを考えたりしている者なんです』と話したら、『まさに“日本のジョン・ミューア”ですね!』って言ったんですよね。もちろん、そんなおこがましいことは自分で思っていませんが、その言葉が、この本を書こうと思った一番のキッカケなんですね。
その森には“ジャイアント・フォレスト”という名前が付いているんですけど、その名前を付けたのがジョン・ミューアなんですね。その森を歩いているときに“日本のジョン・ミューア”といわれたから、『これは、“ジョン・ミューアについて書きなさい”といわれているのと同じだな』と思ったんですね」(1995年4月8日放送分より抜粋)
※ここで、初代パーソナリティー・エイミーさんより、加藤さんに対するメッセージをいただきました。
エイミー「加藤さん初出演の95年4月8日の放送を聴いていただきましたが、加藤さんは当時“森住みの物書き”と名乗っていらしたんですが、そんな加藤さんがそのころ住んでいた八ヶ岳山麓の森にお邪魔をして、一緒に森を歩かせていただいたこともあるんですが、そのとき「人ってこんなにも自然の一部として森に溶け込めるんだな」と思ったことを今でも覚えています。その後も、たとえ都内のスタジオでお話をうかがっていても、森林浴をしたような感じで、リラックスした気持ちになれたことも今でもよく覚えています。
加藤さんはトレイルを歩いているときに気分がよくなると、口笛を吹きながらすごく早いペースで歩くことから“ホイッスリング・ジャックラビット”というトレイルネームを一時使用していたことがあるんですが、そんな加藤さんに以前、「アパラチアン・トレイルにはハイカーたちを色々な形でサポートしてくれる各地元のボランティアがいて、ハイカーたちは彼らのことを“トレイル・エンジェル”と呼んでいる」という話をうかがったことがあります。あの大きなバックパックを背負って、口笛を吹きながら森の中を歩く加藤さんの姿はもう見られませんが、これからはきっと、文字通りの“トレイル・エンジェル”となって、世界中のトレイルでハイカーたちを見守ってくれるのではないかと思っています。」
※加藤さんは、自然保護の父といわれるジョン・ミューアの功績をたたえ、アメリカ西海岸シエラネバダ山脈の中枢部分を貫くように作られた「ジョン・ミューア・トレイル340キロ」を、95年の6月から約1ヶ月かけて踏破。憧れのトレイルを歩き通した加藤さんは、その経験を元にジョン・ミューア・トレイルのガイドブックを出すための準備に入られました。そして99年、「ジョン・ミューア・トレイル340キロを歩く」がついに出版され、その年の“JTB紀行文学大賞”を受賞します。では、ガイドブックを書くに当たって、そこにはどんな思いがあったのか、99年7月31日放送のインタビューを聴いてください。
「今、中高年を中心にしてトレッキングブームが来ていますよね。海外にもどんどん出かけていくんですよ。そこで、海外でトレッキングをする場所として選ばれるのは、みんなヒマラヤやヨーロッパ・アルプス、カナダのロッキーなんですね。それに比べて、アメリカに行く人はほとんどいないんですよね。ということは、アメリカにあれだけの素晴らしいフィールドがあるということが一般的に知られていないんですよね。
カリフォルニア州には、“シエラネバタ山脈”というところがあるんですけど、広いアメリカで一番日本に近い西端のカリフォルニアに4,000メートル級の山を連ねた素晴らしいフィールドがあるんですが、それがほとんど知られていないんですよね」
エイミー:そりゃ知らないですよ! 西海岸といったら“海”ですからね。そこに山があって、トレイルがあるなんて知らなかったです。
「しかも、4,000メートル級の山が連なっているんですね。なおかつ、環境問題に関しては、ドイツや北欧の方が優れていますが、自然保護に関しては、アメリカのシステムはとても優れているんですよね。なので、そのアメリカの山を歩くと、そのシステムの優秀さがとてもよく分かるんですよ。
実は私、シエラネバタ山脈に10年以上、日数にすると100日以上キャンプしているんですね。そうなってくると、もはや住んでいるのと変わらないんですが(笑)、そこで日本人に会ったことがないんですよね。シエラネバタ山脈にはいくつかのアプローチポイントがあるんですが、一番ポピュラーなポイントは、ヨセミテ国立公園なんですね。そこには“ヨセミテ渓谷”があるんですが、そこは観光地化されているので、バスでも車でも行くことができるから、そこには日本人がたくさんいるんですよ。それをアメリカの自然保護のシステムでは“フロント・カントリー”というんですが、それに対して、車や自転車では行けず、徒歩で入るか、アメリカの場合は歴史的背景があるので、馬で入るかのどちらかでしか入れないところを“バック・カントリー”というんですね。そのバック・カントリーに入ると、日本人がほとんどいなくなってしまうんですね。
なぜかというと、一つは、日本のメディアの責任もあると思うんですね。海外の山を紹介するときって、ほとんどがヒマラヤかヨーロッパ・アルプス、カナディアン・ロッキーなんですよね。シエラネバタ山脈のことはほとんど紹介されていないんですよ。だから、一般の人は知らないし、ガイドブックも無いんですよね。そういうのって、すごく寂しいんですよ。私たちもそうなんですが、外国に行っているのに日本人がたくさんいると、あまり面白くないんですが、100日以上キャンプしているのに、日本人に一人も会わないというのは変だし、寂しい気がするんですよね。現地のレンジャーと話していても『何で日本人は山を歩かないんだ? 僕はここで10年レンジャーをしているけど、日本人誰も通ったことがないんだよ。日本人は山が嫌いなのか?』って言われるんですよね」
エイミー:そこで日本人に会ったことがないから、そのレンジャーにとって、“日本人=登山が嫌い”という風に思っちゃってるんですね。
「『ヨセミテ渓谷にはあれだけの日本人観光客がいるのに、なんで山に来ないんだ? 日本人は登山が嫌いなのか?』って言われるんですよ」
エイミー:それは寂しいですよね。
「そうなんですよ。『そんなことないよ。日本にはすごくいい山がたくさんあって、登山客がたくさんいるし、世界にも出ていっているんだよ』っていう話をしているんですよね。それを受けて、『これは私が書くしかないな』と思ったのが一つの動機なんですね」(1999年7月31日放送分より抜粋)
※加藤さんは、アメリカの国立公園についてもたいへん造詣が深く、日本の国立公園のあり方に鋭い視点で問題提起をされてきました。2009年6月28日の放送でこんな指摘をされています。
「日本の国立公園が出来たいきさつとして、当然のことながら、発祥の地であるアメリカの国立公園をベースにしているんですね。その中で、私はヨセミテに入り浸っているんです。これは、ジョン・ミューアを20数年来、色々研究していまして、彼は“国立公園の父”“ウィルダネスの父”“自然保護の父”といわれている人なんですね。彼の理念の元に出来た国立公園がヨセミテ国立公園で、1860年代後半からヨセミテがあるシエラネバダっていう4,000メートル級の山が連なっているカリフォルニアをジョン・ミューアが放浪するんですね。彼が放浪する中で、彼は元々、自然保護意識が高かったんですけど、具体的な理念が色々出てきて、それに基づいてできたのがヨセミテ国立公園。そういうものをベースにして日本も国立公園ができたわけですけど、非常に管理の仕方が難しい。
アメリカやカナダの国立公園は、大きな国ですからここを国立公園にしようとしたときに、アメリカの場合は全てナショナル・パーク・サービス、国立公園局が管理しているんですけど、ほぼ全て国立公園局の土地なんですね。国の中の国立公園局が地主でもあり、管理人でもあるわけです。
日本の場合は小さな国にこれだけ人間がたくさん住んでいますから、ここを国立公園にしようとしたときに、既に人がたくさん住んでいるわけです。箱根の外輪山を思い浮かべていただくと一番分かりやすいんですけど、外輪山は富士箱根伊豆国立公園の中の箱根エリアなんですね。そこに1万8,000人くらいの人が住んでいるんです。そして、数百件の温泉施設がある。その人たちを追い出すわけにはいかないので、彼らの営業、彼らの生活圏、営為も含めて管理をしなきゃいけないというのが、日本の国立公園の難しさなんですね」
エイミー:アメリカでは国立公園が観光地になっていて、情報も入ってきたり、一般的に知られていますけど、日本の国立公園ってそこまで知られているのか疑問ですよね。
「それがまさに大きな問題で、アメリカ人にとって国立公園っていうのは誇りなんですね。国立公園は“アメリカ最大の発明”だとも言われているんです。もちろん全員じゃないですけど、アメリカ人は国立公園を誇りに思っているんです。また、アメリカの子供たちは国立公園のレンジャーが憧れの的だったりするわけです。それは、子供の学校教育の中で国立公園っていうものが、かなり取り入れられているからなんですね。日本は国立公園というものが自然教育の中にあまり取り入れられていない。
それからもう1つは、日本の国立公園は29あるんですが、それを観光地としてはあまり知らないっていう人がほとんどなんですね。ところが、観光地として人がたくさん行く場所のほとんどが実は国立公園なんです。それは意識が低いだけのことで、自分が国立公園を歩いているという意識がないんです。例えば、登山をする人。百名山って一時期ブームになりましたよね。百名山の中の77座が国立公園の中にあるんです。ですから、百名山を目指して歩いている人の意識の中に、自分が国立公園の中を歩いているという意識がないんです」(2009年6月28日放送分より抜粋)
※そして2001年3月4日の放送ではこんな提言を残してくださいました。
「“21世紀は、あらゆることに対して、生態系をベースに考えていかないと、地球が危ない”ということが、20世紀の後半には分かってきたじゃないですか。経済でも政治でも、なんでも自然生態系をベースとして考えないと、地球が存続しない時代になったと思うんですね。そういう意味で、国立公園をキーとして、そういうことを考えていくということが、とても重要なことだし、せっかく、国立公園といういいシステムがあるわけですから、分かりやすいことだと思うんですね」(2001年3月4日放送分より抜粋)
※加藤さんの偉業の一つが、アメリカ東部、ジョージア州からメイン州まで14の州を貫くスーパー・ロング・トレイル「アパラチアン・トレイル3500キロ」を半年かけて完全踏破。それも一気に歩き通すスルーハイクに成功されたことです。それでは帰国して間もない、2005年11月6日の放送から、ゴール間近のメイン州に入ったときエピソードをお聴きください。
「メイン州でもいくつもいくつも山を越えてきているんだけど、その中の“モキシーバルド”という山に登ったときに、あまりにも風景が美しかったので、これはプロとしてはとても恥ずかしいことなんだけど、私は素直に表現するほうだし、自然に出るんですけど(笑)、この山は涙を流しながら1人で歩いていました。そのくらい感動しました。その風景自体は北極平原とか北極の森と同じような風景なんだけど、その時を遥かに越える感動を得たっていうのは、それだけの距離を歩いてきたっていうことがあったからだと思うんですね。
実は、到達する何日か前の『あと何日だ』っていう思いと、メイン州に入ったときもそうなんだけど、『ようやくここまで来たんだ』という感慨。『あと何日で終わる』という感慨とは別に、『あと何日で終わっちゃうんだ』っていう気持ち、寂しい気持ちがどんどん増していったんですよ。それで、カタディンの麓で一泊したときには、あと1日しかないんです。そのときの『あー、もうあと1日で終わっちゃう』っていうこの寂しさは言葉にならないですね。それくらい寂しかったです。それだけのつらいことや苦しいこともあったけど、それ以上に楽しかったんですね。
私はアパラチアン・トレイルに対して、“Social”と“Share”というキーワードを付けました、“Social”は、日本語に訳しちゃうと少し意味が違うかも知れないですが“社会性”という意味で、“Share”は“分かち合い”なんですね。それは、おそらく世界中に美しくて優れたトレイルがたくさんあると思うんだけど、アパラチアン・トレイル以外には絶対に有り得ないだろうなと思う。私も日本を含めた世界中のトレイルを歩いているけれども、こういうトレイルは全然なかったです」(2005年11月6日放送分より抜粋)
※そして、2011年7月23日の放送ではこんなこともおっしゃっていました。
「アパラチアン・トレイルの一番大きな特徴の一つに、アパラチアン・トレイル自体が一つの文化になっていると言っていいほどのもので、アパラチアン用語みたいなものがたくさんあるんですよ。その中で一番有名なのは、“トレイル・エンジェル”です。これは、アパラチアン山脈の山麓に住んでいる人にとって、アパラチアン・トレイルって“誇り”なんですね。世界で一番有名なトレイルが自分のふるさとにあるということなので、そこを歩く人のことを尊敬してくれるんです。そして、歩く人たちを支えようとしてくれるんです。
例えば、トレイルを歩いていると、林道だったり、インターステート・ハイウェイだったり、色々な道と交差していくんですけど、林道が近づいてきたら、たまにクーラーボックスが置いてあって、開けると、コーラなどの炭酸飲料が入っているんです。それは、地元の人たちがバックパッカーのために無料で置いていってくれるんです。だから、私たちはそういう人たちのことを“トレイル・エンジェル”と呼んでいます。そして、そのクーラーボックスのことを“トレイル・マジック”と言っています。まさに、そこにクーラーボックスがあったらマジックですからね。非常に厳しいところを歩いている人間にとって、コーラがあったら、それ以上嬉しいことはないんです。そこでもう一つすごいことがあって、バックパッカーは喉が渇いているので、水に加えて甘みのある炭酸飲料は二本でも三本でも飲めちゃうんですが、一本だけで我慢するんです。それは、後から来るバックパッカーのために一本だけで我慢するんです。つまり、これはバックパッカー同士の心の通い合いができてくるんですね。
これは、距離が長ければ長いほどその流れができてくるんです。例えば、歩き始めて300キロぐらいで、他のバックパッカーと会ったら『どこから来たんだ? 頑張っていこうぜ! どこかでまた会うかもしれないな』といった感じでコミュニケーションを取るんですね。そして、そのバックパッカーに1,000キロの地点で再開したら『また会ったね! 今度降りたら、一緒に食事でもしようか』みたいな感じで親しくなるんです。そしてそのバックパッカーと3,000キロの地点で再開したら、抱き合って涙を流しあいます。なぜそうなるかというと、心が通い合っているからなんですね。3,000キロを歩いて、どれだけの想いをしたかという自分の気持ちが、彼の気持ちを鑑みるんです。」(2011年7月23日放送分より抜粋)
※加藤さんはアパラチアン・トレイルを運営・管理するシステム、特に地元の市民ボランティアがメンテナンスし、トレイルに誇りを思っていることに感銘を受け、その優れたシステムを日本でも実現したいという思いで、長野県と新潟県の県境にある“信越トレイル”作りにも力をいれていました。そんな加藤さんと深い親交のあった「シェルパ斎藤」さんからメッセージが届いています。同じバックパッカーであり、作家、そして八ヶ岳山麓の住人という共通項の多かった加藤さんの存在は斎藤さんにとっても大きかったようです。
シェルパ斎藤さん:加藤さんに対して、色々な想いがあるんですが、やっぱり、アパラチアン・トレイルを歩いたときにすごく感動したんですね。どうしてかというと、加藤さんは、歩きながら、ネットでずっと発信してましたよね。ずっと歩きながら書いて、それを世界中に発信してるっていうのはすごいと思ってたんですね。加藤さんがアパラチアン・トレイルを歩き終えたあと、それをお祝いする会が開かれて、参加された皆さんがお祝いの言葉を言ってたんですよ。でも、僕はそれに対して、違和感があったんですよ。“感謝の言葉を誰も言ってなかった”んですよね。それに気づいたんで、会が終わろうとしているときに、「この会、終えるのをちょっと待ってください。加藤さんにお礼を言いたいんです」って言ったんですね。
そのときの言葉をそのまま話すと、「アパラチアン・トレイルを歩いている人って、毎年けっこういるんですけど、歩きながらメッセージを発信し続けた人は加藤さんしかいないんですよ。僕らは、日々の生活に追われているときに、ネットでそれを見て『こんなときにも加藤さんは歩いているんだ!』って思わせるメッセージを発信し続けたんですよね。これが、素人だと『今日は何を食べた』『何キロ歩いた』ということでいいかもしれないけど、加藤さんはプロの作家です。僕も物書きなんで分かるんですが、作家の立場から文章を書くというのは気が抜けないんですよね。それを全部背負い込んで発信し続けた。その加藤さんの文章に、どれだけの人が勇気付けられたか。歩き終えたときには、僕も日本で乾杯したい気分でした。それは僕だけじゃないと思います。それだけの夢を持たせてくれた加藤さんに“ありがとう”と言いたいです」と言ったんですね。
加藤さんが作り上げた“日本のロングトレイル”という文化を、これから若い人たちがたくさん歩いて、さらに太くしていくと思います。どうか、そんな彼らを空の上から見守ってください。
※それでは最後に、2011年7月23日の放送から、加藤さんのこんな言葉をご紹介しましょう。「アパラチアン・トレイルは加藤さんに何をもたらしましたか?」という質問に対して、こんな風に答えてらっしゃいます。
「国内外にある様々なトレイルを歩いてきましたけど、3,500キロという距離は初めての経験でした。そして、私自身、元々、原生自然が好きなんですね。その原生自然の中に、一人でいることが好きで、そういうところを歩いてきました。アパラチアン・トレイルがそういうところだと知っていて、テーマ性があったから入ったんですけど、このトレイルは自然の中にあるので、ネイチャー・トレイルではあるんですけど、歩き終えて“ソーシャル・トレイル”だと感じました。そのトレイルの中では、独特の社会ができているんですよね。
私は、人があまり好きじゃないと思っていたんですが、本当はとても好きだったということを、このトレイルで感じました。今までそういう風に感じていなかったわけではなかったんですけど、改めて『私は人が好きなんだ』ということを、ここを歩いて確認しましたね。」(2011年7月23日放送分より抜粋)
※これまでの加藤則芳さんのインタビューもご覧下さい。
私は一度だけ加藤さんのご自宅にお邪魔をしてお話をうかがわせていただいたんですが、本当に温かく迎えて下さり、アパラチアン・トレイルの色々なお話を聴かせてくださいました。何より、トレイルのお話をされる時の加藤さんのキラキラとした笑顔がとても印象的でした。これからもっともっと色々なお話をうかがいたかったので、本当に残念でなりませんが、いつか私も信越トレイルに行って、加藤さんの残された思いを感じにいきたいと思っています。
加藤さんはこれまで数々の著書を出されています。
山と渓谷社/定価1,631円
2:「日本の国立公園」
平凡社新書/定価798円
3:「ジョン・ミューア・トレイルを行く~バックパッキング340キロ~」
平凡社/定価2,310円
4:「ロングトレイルという冒険」
技術評論社/定価1,659円
5:「メインの森をめざして~アパラチアン・トレイル3500キロを歩く~」
平凡社/定価2,940円
どれも素晴らしく、加藤さんの功績を改めて知ることができる作品ばかりです。是非読んでいただければと思います。
加藤さんのオフィシャルサイトでは、旅の記録やエッセイを見ることができます。是非チェックしてみてください。